この記事では、日本の小説家であり直木賞受賞作家、井伏鱒二について解説をしています。
井伏鱒二はどのような作品を作り上げ、どのような人生を送ったのでしょうか?
井伏鱒二の生い立ち
井伏鱒二の解説を行う前に、年表を作成しましたのでご覧ください。
1898年 | 広島県に誕生 |
1919年 | 早稲田大学文学部入学 |
1921年 | 日本美術学校入学(二重学籍) |
1922年 | 上記2大学を退学 |
1923年 | 『幽閉』を発表 |
1929年 | 『幽閉』を改作し『山椒魚』として発表 |
1930年 | 太宰治が訪れ、師事する |
1938年 | 『ジョン万次郎漂流記』で直木賞受賞 |
1965年 | 『黒い雨』発表 |
1993年 | 肺炎のため他界 |
1898年広島県に生まれた井伏鱒二は、5歳の時に父を亡くし、祖父と母に溺愛されて育ちます(特に祖父に可愛がられていたそうです)。中学3年生の時から画家を志し、中学卒業後に写生旅行へ行った宿泊先で偶然、日本画家の橋本関雪の知り合いがいたために、入門を申し込むも断れたことがあります。
また、通っていた中学の庭には池がありそこで山椒魚が2匹飼育されていましたが、これが井伏鱒二の代表作である『山椒魚』のモデルとなっています。
画家志望をしていた井伏鱒二でしたが、入門を断られた件と兄の勧めもあり文学に志望を変更します。
井伏鱒二は1919年に早稲田大学文学部に入学しますが、1921年に教授であった片山伸のセクハラにより退学へ追い込まれます。
早稲田とセクハラ、といえば、井伏鱒二の頃からなんだよなあ。当時のスター教授だった片上伸から井伏は執拗に付きまとわれ、休学。復学しようとしたら、当の片上が会議で反対したという話を聞いて、井伏は早稲田を退学する。片上の被害者は井伏だけではなかったようで、浅見淵『昭和文壇側面史』にも→
— Akihiro Takiguchi (@atak422) June 25, 2018
また、日本美術学校にも通っていたがこちらも同時に退学しています。
井伏鱒二の作風
1923年はプロレタリア文学(虐げられた労働者の直面する厳しい現実を描いたもの)の最盛期であったことかあら、井伏鱒二の作風は時流の乗らず不遇の時を過ごします。1923年に『幽閉』を発表しています(後に『山椒魚』へ改題)が、日の目を見ることはありませんでした。
そのプロレタリア文学が下火になると、やっと井伏鱒二の作品が注目されだします。
1929年に『屋根の上のサワン』を発表、1930年にはすでに発表されていた『幽閉』を改変した『山椒魚』を短編集「夜更けと梅の花」に掲載して刊行します。すると小林秀雄らから高い評価を受け、作家としての地位を確立し始め、『ジョン万次郎漂流記』など庶民の生きざまを描いた作品を発表します。
この『ジョン万次郎漂流記』は1938年の直木賞受賞作品になっています。
ちなみに『山椒魚』が『幽閉』を改変したものであることからわかるように、『山椒魚』は岩屋に入り込んだ一匹の山椒魚が、頭の肥大により身動きが取れなくなる話(幽閉される)お話です。
井伏鱒二と戦争
1941年、井伏鱒二は陸軍に徴用され、日本の占領地マレーに1年間赴きます。従軍の内容は、日本語新聞の編集でした。そこでの経験は井伏鱒二の戦争観を形成し、鋭く事実を観察する作風への変化にも繋がっています。
軍国主義の風潮には決して傾かず平常心を保った井伏鱒二(よく言われるのが「井伏鱒二は健全な常識人である」)は、戦後『本日休診』『黒い雨』などの作品を執筆します。これらの作品は庶民目線での戦争や原爆投下の悲劇を描きました。
太宰治と井伏鱒二
当時中学生だった太宰治は、山椒魚を読み「埋もれたる無名不遇の天才を発見した」と言ったそうです。
井伏鱒二に何度も手紙を送り「会ってくれなければ自殺する」と迫りました。
1930年に初めて出会った太宰治と井伏鱒二は、それ以来師弟関係となります。薬物中毒に陥った太宰を説得して入院させて、お見合いと結婚の世話を行いました。また、太宰治への故郷からの送金は太宰治が使い果たさぬよう井伏鱒二が管理していました。
このように井伏鱒二に世話になりっぱなしの太宰治でしたが、遺書には「井伏さんは悪人です」と書かれていました。
一方の井伏鱒二は太宰を突き放そうだとか、毛嫌いしていたということはなく、太宰の死(自殺)を悼んだと言います。
太宰治の井伏鱒二への「悪人です」という言葉には何が込められていたのか、今となってはわかりません。
井伏鱒二の作品
最後に井伏鱒二の代表作である『黒い雨』と『山椒魚』を紹介しておきたいと思います。
黒い雨
実在の若い女性がモデルとなり、モデルの叔父の日記と取材を元に書かれた長編小説です。あらすじは以下の通りです。
広島への原爆投下から数年後、閑間重松(しずま・しげまつ)とシゲ子の夫妻は戦時中に広島市内で被爆します。
同居する姪の矢須子は婚期を迎えていますが、縁談の度に彼女が被爆者であるといううわさが立ち、結婚ができません。矢須子は爆心地より遠く離れた場所にいたため、直接被爆はしていなかったのに・・・。
ある時、良い縁談が持ち上がりこの話をまとめたいと思う重松は、矢須子に健康診断を受けさせ、さらに被爆していないことを証明するために原爆投下前後の彼女の日記を清書しようとします。
しかし矢須子は原爆投下当日、重松夫妻の安否確認のため広島へ向かう途中で黒い雨に打たれていたのです。そして再会した重松夫妻らと広島市内に滞在したため、残留放射線も浴びていたのです。そんな折、矢須子は原爆症を発病。症状は悪化し縁談も破談になってしまいます。
戦争や原爆の恐ろしさとそれに人生を左右される庶民の姿が描かれており、野間文藝賞を受賞、1989年には映画化されて話題となりました。
山椒魚(1929年)
1923年の『幽閉』に加筆・改題して発表した作品です。
渓流の岩屋から体が大きくなりすぎて出られなくなった山椒魚。その悲哀をユーモラスに映画いた作品で、井伏鱒二の代表短編作品になっています。そのあらすじは次の通りです。
岩屋をねぐらにしていた山椒魚がいました。
2年間岩屋で過ごすうちに、体が大きくなり頭が出入り口につっかえて出られなくなってしまいます。山椒魚は外へ出ることを何度も試みますが上手くいきません。
「ああ神様、どうして私だけがこんなにやくざな身の上でなければならないのですか」と神様に訴えます。
岩屋の外で自由に動き回る魚の姿を見て自由をうらやむ山椒魚ですが、そうしたものからは目を背けるように瞼を閉じます。長期にわたる幽閉の結果、心を病んだ山椒魚は、ある日岩屋に飛び込んできた蛙を閉じ込めて自分と同じ状況に追いやります。
蛙と山椒魚は口論を始めますが、どちらも閉じ込められたまま数年が過ぎます。
山椒魚は「もう降りてきてよい」と蛙に呼びかけますが、蛙は空腹で死の間際。
しかし蛙は自分を閉じ込めた山椒魚に対してこう言います「今でも別にお前のことを怒ってはないんだ」。
この山椒魚は短編小説ですので、読みやすく国語の問題にも良く出される小説です。
しかしこの最後の「今でも別にお前のことを怒ってはないんだ」というセリフはその後の改訂で削除されました。つまり、山椒魚と蛙の和解が無かったことになったのです。物語を形作る非常に重要な文であるにも関わらず、井伏鱒二の迷いが見られます。
その後もこの最後の一文を削除するか元に戻すかを晩年まで悩んでいたようです。