この記事では、日本の小説家であり芥川賞受賞作家、「第三の新人」と呼ばれた安岡章太郎について解説をしています。
安岡章太郎はどのような作品を作り上げ、どのような人生を送ったのでしょうか?
安岡章太郎の生い立ち
1920年 | 高知県高知市に生まれる |
1951年 | 『ガラスの靴』発表 |
1953年 | 『陰気な愉しみ』『悪い仲間』で芥川賞受賞 |
2013年 | 老衰により他界(92歳) |
安岡章太郎は、父の仕事(陸軍獣医官)の関係で転校を繰り返したため学校になじめなかったことが多く、小学生のころから劣等生であったと言います(本人談)。
安岡章太郎は中学に入学すると、素行不良のため教師の実家である禅寺へ預けられることとなります。1939年に高知高等学校(今の高知大学)を受験するも失敗、高校受験に3度失敗した後、1941年にやっと慶應義塾大学予科に入学します。
が、在学中に太平洋戦争がはじまり、召集され旧満州(現在の中国東北部)に送られ従軍します。しかしながら、肺結核のため除隊されます。
なお、安岡章太郎が除隊された部隊は1944年8月にフィリピンへ動員され、同年10月から始まったレイテ島の戦いに投入されて全滅しています。つまり入隊した部隊の中で数少ない生き残りの一人ということです。
肺結核になったことが除隊へ繋がり、安岡章太郎を芥川賞へ導くことになるわけですから人の命運は数奇なものだと言えますね。
安岡章太郎の文学作品の根底にあるものは
小学校から除隊までの劣等感は安岡章太郎のエッセイや小説でたびたび言及されていて、病気や落第といった安岡章太郎の人生における挫折は重要な文学のエッセンスになっています。
終戦後帰国して食料調達に奔走していた安岡章太郎でしたが、結核菌による脊椎カリエスを発症し療養生活を送ることになります。その時に「何のために生きているのかわからなく、心の中に考えていることを書いておこう」と思ってできたのが1951年に書いた『ガラスの靴』でした。
この作品は芥川候補賞となり、2年後の1953年、短編小説『陰気な愉しみ』『悪い仲間』で芥川賞を受賞します。
当時は戦後であり、戦争に突入していった日本は負けてしまったわけです。当然ながら当時の小説もその戦後という背景の元、戦争や国家の体制をテーマにした小説が多かったのですが、安岡章太郎は自らの挫折をテーマにした小説を書きます。
安岡章太郎の作風は日常生活を描くことに特徴があり、小学校から除隊されるまでの劣等感を背景に、内面の弱さや敗北感を感じられる作風になっています。
また、安岡章太郎は遠藤周作・吉行淳之介らとともに「第三の新人」と呼ばれるようになります。「戦前の文壇はは私小説や短編小説が主流でしたが、第一次・第二次世界大戦中はヨーロッパ風の長編小説が流行ります。「第三の新人」とは、この流れに逆行し、私小説・短編小説へ回帰したことが特徴としてあげられます。
安岡章太郎の作品
最後に、安岡章太郎の作品を紹介しておきたいと思います。
陰気な愉しみ
病気になり軍隊から除隊された「私」は役所から災害給付金を毎月貰っています。
大して働きもしないのにお金を貰っている「私」はとても屈辱的な気持ちになるのですが、それでも給付金を役所へ貰いに行く。実はそれ自体が「陰気な愉しみ」であるのだ。
劣等感に悩まされる「私」と小さなことで他人に対して優越感を感じる卑しい「私」の内面が描かれた作品になっています。
悪い仲間
安岡章太郎の芥川賞受賞作品です。主人公のモデルは、戦前に大学生をしていた安岡章太郎自身ですね。
大学の夏休みに、フランス語学校で「藤井」という男に出会った「僕」。「藤井」は「僕」の知らないような遊びを知っていて、女・食い逃げ・盗み・のぞき見などいわゆる「悪い遊び」を「僕」に教えてくれます。
夏休みが終わり、大学に行った「僕」は大学の親友の「倉田」に「藤井」から教わった遊びを教えることで快感を得るようになります。しかしそこへ「藤井」が現れ、「僕」が「倉田」に教えていたことは全て「藤井」の真似事に過ぎなかったことがバレてしまいます。
劣等感を抱いた「僕」は二人を風俗へ連れていくのですが・・・
この『悪い仲間』でもはやり劣等感がキーワードになっており、安岡章太郎の「内面を掘り下げた作品」という特徴が良く表れているかと思います。