この記事では、『檸檬』が代表作として有名な梶井基次郎について解説をしています。
梶井基次郎はどのような作品を作り上げ、どのような人生を送ったのでしょうか?
梶井基次郎の生い立ち
梶井基次郎の生い立ちを解説していきます。まずは年表を作成しましたのでご覧ください。
1901年 | 大阪府に誕生 |
1919年 | 第三高等学校入学 |
1924年 | 東京帝国大学入学 |
1925年 | 同人誌「青空」創刊、『檸檬』『城のある町にて』 |
1926年 | 結核が悪化し、療養 |
1927年 | 『冬の日』 |
1928年 | 『冬の蠅』『桜の樹の下には』 |
1930年 | 『愛撫』『闇の絵巻』 |
1931年 | 『交尾』 |
1932年 | 肺結核のため他界 |
1901年、梶井基次郎は貿易会社に勤務する父の元に生まれます。
しかし梶井基次郎の父は酒におぼれる人物であったため、母のヒサは子供を道ずれに自殺をしようと思い詰めたこともありました。しかし母は教育熱心で、梶井基次郎は幼少期より『百人一首』などの和歌や『平家物語』などの古典や物語に親しんでいました。
第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部)へ進学した梶井基次郎は、文化の学生と親交を深めて文学的な知識を蓄えていきます。
しかし梶井家では祖母・弟・異母妹が結核性の病気で他界、梶井基次郎自身も肋膜炎などで発熱を繰り返し、療養生活を送りながら5年で第三高等学校を卒業します。
梶井基次郎の経歴
東京帝国大学英文学科に入学後は、同人誌「青空」を創刊し、小説家としての道を歩んでいきます。
この時に発表した小説『檸檬』は梶井基次郎の代表作として著名で、小林秀雄や三島由紀夫などの文学者から高く評価されており、梶井基次郎の命日である3月24日は「檸檬忌」と呼ばれています。
しかし、結核は梶井基次郎に重くのしかかることとなり、1926年には静岡県伊豆湯ヶ島温泉で療養を余儀なくされます。
このことは梶井基次郎の作品にも大きく影響を与えることとなり、『冬の日』『冬の蠅』など自分の病気と死を意識した作品を発表するに至ります。その後も病気のと闘いで居住地を転々としますが、『桜の樹の下には』『交尾』などの小説を書き続け、『交尾』は井伏鱒二に「神業の小説」と評価されるなど文壇で注目を浴びます。
しかしながら、病には勝てず体は蝕まれていきま、1931年に肺結核のため、31歳という若さで他界します。
梶井基次郎の作品は、孤独や絶望といった色合いが強い作品が多いのですが、死の直前に発表した『のんきな患者』では孤独や絶望の色は消えています。
梶井基次郎と宇野千代
梶井基次郎が療養のため湯ヶ島温泉に滞在していた時、同じく湯ヶ島温泉に来ていたのが川端康成でした。
川端康成は梶井基次郎にとって、目上で尊敬すべき存在であり、川端康成の『伊豆の踊子』の校正を手伝うなど、川端との親交を深めたと言われています。
また川端康成から紹介された文学者、宇野千代と恋仲関係に陥りますが、この時宇野千代は同じく文学者の尾崎士郎と婚姻関係にあり、その後宇野千代と尾崎士郎の離婚の一因になっています。
梶井基次郎の作品
最後に梶井基次郎の作品を紹介して記事を〆たいと思います。
檸檬(1925年)
梶井基次郎が書いた短編小説で、梶井基次郎の代表作です。
簡単にあらすじを紹介します。
「私」は京都に住む学生である。
「得体のしれない不吉な塊」が「私」の心を終止押さえつけている。それは肺の病気・神経衰弱や借金のせいだけではなく、その「不吉な塊」のせいだと考えている。
昔は好きだった文具書店の丸善でさえも今の「私」には重苦しい場所となっている。
ある朝「私」は京都の町を散歩していると、以前よりお気に入りの店だった寺町通の果物屋で、珍しく「私」の好きな檸檬が売られているのを見つける。そのことにより、「私」の心を押さえつけていた「不吉な塊」がいくぶん晴れた気がした。
そこで久しぶりに文具書店の丸善へ足を運ぶ。しかし、再び憂鬱な気持ちになってしまい、棚から本を取り出すのも憚られるのであった。
いくら画集を見ても憂鬱な気分は晴れず、積み上げた画集をぼんやりと眺める。
「私」は檸檬をその積み上げた画集の上に置いてみた。
「私」はその檸檬をそのままにして外へ出た。
檸檬を爆弾に見立てた「私」は丸善が木端微塵に爆発する想像をしながら、新京極を下っていくのである。
簡単に書くとこのようなストーリーなのですが、なぜこれが梶井基次郎の代表作になるのかは私のような素人にはわからないですねw
「得体の知れない不吉な塊」が何なのかが語られることは作中ではありません。
陰鬱な気分を吹き飛ばしてくれる「檸檬」を爆弾に見立て、現在の憂鬱の象徴である「京都丸善」へ設置し、この「得体のしれない不吉な塊」が吹き飛ばしたい、という梶井基次郎の心情描写が素晴らしいのかなと思います。
のんきな患者(1932年)
結核症状で入院生活を過ごす主人公が、母親との愉快な会話や、同じ結核で亡くなった人々やその家族など庶民の暮らしを中心に描いた小説。それまでの梶井基次郎の作品は心理描写が中心でしたが、この作品は客観的な本格小説となっています。
しかしながらこの作品を仕上げて3か月後に梶井基次郎は死去したため、その後の梶井基次郎の作品を読むことは残念ながら叶いません。