この記事では、明治生まれの日本の小説家、大岡昇平について解説をしています。
大岡昇平はどのような作品を作り上げ、どのような人生を送ったのでしょうか?
大岡昇平の生い立ち
大岡昇平の生い立ちを解説していきます。まずは年表を作成しましたのでご覧ください。
1909年 | 東京都に産まれる |
1928年 | 成城高等学校入学 |
1929年 | 京都帝国大学(のちの京都大学)入学 |
1944年 | 召集されフィリピンに赴く |
1945年 | アメリカ軍捕虜となり、帰国 |
1948年 | 『野火』発表 |
1967年 | 『レイテ戦記』発表 |
1974年 | 『中原中也』発表 |
1988年 | 脳梗塞のため他界 |
1909年、大岡昇平は株の相場師をする父のもと、東京都で生まれます。成城高校へ進学すると文芸評論家である小林秀雄の授業を受けるようになり、中原中也らと交流を行うことで文学への興味を深めます。
京都帝国大学(のちの京都大学)に進学した後は、フランス文学を専攻しフランスの小説家スタンダールに没頭していきます。スタンダールの人間観察と心理分析手法は大岡昇平の作品に強く影響を与えることとなります。
大学卒業後は新聞社に勤務しますが、戦争が大岡昇平の人生を変えます。
1944年に太平洋戦争の召集を受けてフィリピンへ赴きますが、そこでアメリカ軍の捕虜となりレイテ島の施設に収容されることになります。そこでの体験が後に日本を代表する戦争小説である『野火』や『レイテ戦記』などに繋がっていくわけです。
大岡昇平の人物像
終戦後はレイテ島での体験を元に『俘虜記』で小説家としてデビューします。その後も『野火』『レイテ戦記』など戦時の状況における人の行動と心理を客観的に観察し、そこに人間の本質をとらえようとする手法で作品を発表したことから、第二次戦後派作家として名を馳せます。
大岡昇平は戦争小説で有名ですが、才覚を発揮したのは戦争小説だけではありませんでした。
スタンダールのような心理小説の手法を用いた「武蔵野婦人」や「花影」、推理小説「事件」など、多岐にわたるジャンルで小説を出版します。
また年表にもあるように生涯にわたり中原中也を尊敬し、『中原中也』とう評伝も発表しています(題名がそのままですけど)。
好戦的な論客としても有名で、井上靖や志賀直哉・森鴎外などを批判しています。いずれも史実の改変だという主張をしています。『レイテ戦記』で野間文学賞の受賞者になった時も、これを辞退しており、これは選考委員会の舟橋聖一と仲が悪かったのが理由です。
このようなことから大岡昇平は好戦的な性格であると言われています。
大岡昇平の主要作品
最後に大岡昇平の主要な作品を紹介していきたいと思います。
俘虜記(1948年)
大岡昇平の太平洋戦争体験に基づく小説です。
召集されてフィリピンに配属された「私」が米軍の捕虜となり収容所へ収容されます。物語は捕虜になる前の前半部分と捕虜になった後の後半部分に分かれます。
収容先では国際法に則り、衣食住が確保された生活が待っていました。その生活は日本の戦時下の生活よりはるかにましなものであり、その生活に甘んじる捕虜の姿を客観的に描いています。
また、小説のあとがきには以下のような記述があります。
「俘虜収容所の事実を藉りて、占領下の社会を諷刺するのが、意図であった。5年にわたって書き継いだ為、その間情勢と私の考えに変化があり、一本調子ではない」
レイテ戦記
大岡昇平の代表作の一つです。
1944年から終戦まで行われたレイテ島の闘い。この戦いで日本は8万人を超える死者を出しました。
このレイテ島におけ戦いを、膨大な資料そしてインタビューを元に再構築して小説化したものです。
大岡昇平はこの小説に対して次のように語っています。
「結局は小説家である著者が見た大きな夢の集約である」
野火
大岡昇平ののフィリピンでの戦争体験を元に、死の直前における人の極限状態を描いています。
結核のため、わずかな食料を持たされて隊を追い出された「私」が飢えのため朦朧とします。隊を追い出された「私」は道に散乱する兵士の死体を見つけますが、その死体には臀部(尻)の肉は失われています(つまり誰かが食べた)。その後他の兵士たちと合流することになりますが、そこでも死を回避するために極限の選択が続くのでした。
『野火』は2015年に映画化もされヴェネツィア国際映画祭コンペティション部門にも出品されています。
大岡昇平の死去
レイテ決戦では戦いが終わった後も1万人程度の日本人が取り残されていたと言われており、そこでは小説と同じかそれ以上の凄惨な出来事があったと思われます。その地に派遣され過ごした大岡昇平が、その状況に影響を受けるのは尤もなことで、上記のような戦争小説が有名になっています。
ただ、戦争の悲惨さを伝えるというよりは、感傷を交えず客観的な視点からの分析が評価されています。
1988年に脳梗塞のために死去、この時大岡は森鴎外の歴史小説がねつ造であると主張し、「堺港攘夷始末」でそれを証明しようと執筆をつづけている最中でした。