この記事では太宰治の小説『ヴィヨンの妻』のあらすじと感想を書いています。
ヴィヨンの妻は、私たる「ヴィヨンの妻」がダメ夫に尽くして支えるという話を描いていますが、ヴィヨンの妻はそれを苦にはしていない様子。その理由も考察しています。
Contents
太宰治『ヴィヨンの妻』の背景
題名を見たあなたはまずこう思うでしょう。「ヴィヨン」って何?と。
ヴィヨンとは、15世紀のフランスの詩人、フランソワ・ヴィヨンのことです。
フランソワ・ヴィヨンはパリ大学在学時より、売春婦や素行の悪い者と行動を共にし、殺人・強盗・傷害事件を起こすなど、無頼・放浪の人生を送った人物です。
この作品のに出てくる「私」の夫も、フランソワ・ヴィヨン(まではいかなくても)のように窃盗・飲酒など荒れ果てた生活をしており、ヴィヨンの妻とはそうした人でなしの夫を持った妻のことを指しています。
この作品は1947年に発表されましたが、太宰治は1948年に入水自殺をしており、『ヴィヨンの妻』はその1年前に書かれた作品となります。
太宰治と言えば人間失格などのように暗い小説が有名ですが、この作品は精神的に安定していた時期に執筆された作品ということもあり、暗さはさほど見られません。
また、『ヴィヨンの妻』に出てくる「私」の子は発達が遅く知能障害があるような描写があります。これは1944年8月10日に生まれた太宰の長男、正樹がダウン症であったことから、正樹がモデルになっているものと思われます。
太宰治『ヴィヨンの妻』登場人物
ヴィヨンの妻の人物相関図は次のようになります。
太宰治『ヴィヨンの妻』あらすじ
ここからは、ヴィヨンの妻のあらすじを紹介していきます。
最初に簡単なあらすじを書き、そのあと詳しいあらすじを書いていきます。
太宰治『ヴィヨンの妻』簡単なあらすじ
「私」は放蕩癖のある夫を持つ女性である。家の障子は破れ、壁もはがれかかっているがそれを直すお金もない。
夫は毎晩お酒を飲み歩き、長い時は数カ月も帰って来ない。
或る晩その夫が帰宅するが、いつになく優しく、子供の熱の心配などをする。
すると、小料理屋を経営する夫婦が押しかけてきて、夫はその夫婦と口論となり家を飛び出す。聞けば夫は小料理屋から大金を盗み、おまけにツケが溜まっており、さらに外では愛人を作っているとのこと。
私はその話をきいて可笑しくて笑いがこみ上げてくるのでした。
盗んだお金を返済するべく、あてもなく小料理屋へ私は行くが、奇跡的にも夫の愛人がお金を立て替えてくれる。
私は夫のツケを支払うべく、小料理屋で働くことにする。小料理屋で働いてからの私はいままでになく幸せを感じる。
ある日作家である夫のファンの男性からレイプされた私だが、翌日もいつものように小料理屋で働くために店へ行く。
そこには夫がおり、夫は自分が人非人であるという記事を読み、僕は人非人じゃないと言う。
それに対し私は「人非人でもいいじゃないの。私たちは、いきていさえすればいいのよ」と言うのでした。
以上で簡単なあらすじは終わりです。
なぜ私は「いきてさえすればいいのよ」と言ったのか気になるところです。
詳しいあらすじをみていきましょう。
私と夫と子供
『ヴィヨンの妻』は次の冒頭部分により物語がはじまります。
しかしその夜の夫はいつになく優しく、坊やの熱の心配などをするので私は当惑して背筋が寒くなります。
「私」の子供はよその二つの子供より小さいくらいで、言葉もウマウマとかイヤイヤとか言えるくらいで、脳が悪いのではないかと思われました。私は子供があまり小さく痩せているので、銭湯に行ったときに人前で泣いてしまったこともあったのでした。
そして子供は熱を出したりおなかをこわしたりしょっちゅうするのですが、夫は気に掛ける様子もなく、医者へ行くよう言うだけでした。しかし家にはお金がないので医者へ連れてもいけず、ただその子をあやすより他ないのである。
帰宅するときは常に泥水している夫。発育が遅れている子供。そして子供のことを気にかけない夫。そして医者に行くお金が無い生活。
主人公であるヴィヨンの妻こと「私」の苦境が描写されます。
夫の窃盗
「ごめん下さい」
と女の細い声がして、私は総身に冷水を浴びせられたようにぞっとします。そして次に
「大谷さん!いらっしゃるんでしょう?」と怒った声が聞こえます。
家に招き入れ対応する夫ですが、女性ともう一人の男が現れ、夫はその二人と口論となります。夫と男はもみ合いになりますが、夫は右手にジャックナイフを握りて外へ逃走していくのでした。
「すみません、どうぞ、おあがりになって、お話をきかせてください」私はそう言い、女性と男性を家に招き入れ話を聞きます。
女性は40前後の、小さい、身なりのきちんとした人で、男性は短い外套を着た、50過ぎくらいの丸顔をしています。
家に上がり込んだ二人は、腐りかけているような畳、破れほうだいの障子、落ちかけている壁、紙がはがれて中の骨が露出している襖、片隅に机と本箱、それもからっぽの本箱、そのような荒涼たる部屋の風景に接して、息を飲んだような様子であった。
聞けば二人は夫婦で小さい料理屋を経営しており、夫は3年間そこへ入り浸りの状態。しかし最初にお店へ来た時に大金を置いて行ったきり、その後一度も支払いをしていないらしい。
そして夫にはお金をくれる女性が複数いるらしく、その方たちが夫の借金をいくらか肩代わりしてくれているようだ。
しかしそれでもとても今までの飲み代に足りるものではなく、店としては大損なのである。ある時は知り合いの記者を連れてきては殴り合いのけんかをし、また、店で雇っていた二十歳前の女の子に手を出したりしているとのこと。
そして今夜、とうとう夫は店から五千円もの大金を盗んできたのだという。
お金を払わずお酒を飲む夫。そしてその夫はついに犯罪に手を染めます。五千円もの大金を盗んだのです。
そして話の過程で、どうやら夫には愛人が複数いるらしいことがわかる。家の襖はボロボロ、壁は落ちかけている。
しかし、そのような悲惨な状況に直面しても、私は可笑しさがこみ上げて笑ってしまいます。
夫に対する怒りや悲しみといった描写は一切ありません。これは私が夫に対して無関心だからなのか、無関係なのか、寛容なのか・・?現段階ではわかりません。
夫と私の馴れ初め
しかしそんな大笑いをしてすまされる事件ではなく、私が何とかしてこの後始末をすることとし、警察沙汰にするのはもう一日待つよう夫婦にお願いをする。
私の父は以前おでんの屋台を出しており、私の現在の夫はその屋台にときどき立ち寄り、父をあざむいて他所で会うようになり、坊やがおなかにできたのです。
しかし籍は入っておらず、この子は「父なし子」ということになっていて、夫は3日も4日も、ひと月も帰らぬこともあり、帰るときはいつも泥酔し、私の顔を見てぽろぽろ涙を流すこともあったり、かと思えば私のからだを固く抱きしめて「ああ、いかん。こわいんだ。こわいんだよ、ぼくは。こわい!たすけてくれ!」と震えることもあるのです。
私と坊やの身を案じて夫の古くからの知り合いの出版の方が2,3人、時たまお金を持ってきてくれるおかげで、私と子供はなんとか飢え死にせずに今日まで暮らしてきたのだ。
私はこの事件に無関心なわけではなく、なんとかしなくてはいけないが故に「夜があけなければいい」と思います。私は責任感のある常識的な人間のようです。
夫の無責任な態度が描写されますが、それに対する不平不満の描写はありません。
一方で夫は何かに怯えている様子。お酒もそれからの逃避行動なのかもしれません。
家を出るヴィヨンの妻たる私
翌日、夫婦の営む小料理屋へ来た私は「お金は私が綺麗にお返しできそうですの」と思いがけない嘘を言います。しかし夫婦に完全には信じてもらえないため、お金が戻るまで小料理屋でアルバイトをすることになります。
アルバイト中、亭主は客に「いろも出来、借金も出来」と呟きます。
その日は年末ということもあり、小料理屋には客が絶えることがありません。
しかし私には五千円の見当が何一つついていないので、自分のこのからだがアイスクリームのように溶けて流れてしまえばいい、と考えるだけでした。
しかし奇跡は起こるのです。
変装した夫が34、5の瘦せ型のマダムを連れて店にやって来たのです。「店の主人と内々の話がある」と告げたマダムは、店主と夫と3人で店の外へ出て行くのでした。
私は万事が解決してしまったのだと、なぜか信ぜられて、さすがにうれしく思うのでした。
追い詰められた私は「お金が用意できそう」と嘘をついてしまいます。
そしてお金が戻るまで、小料理屋で働くのですが、或る事(後述)に気づいてしまいます。
そんな時奇跡が起こります。夫が店にやってきて盗んだお金を返すのです。追い詰められていた私は解放感からさすがにうれしく思うのでした。
ヴィヨンの妻の変化
亭主の話によるとあの奥さんは夫と深い関係にあり、お金をマダムが立て替えたとのこと。
しかし今までの借金が2万円あることを聞いた私は、このまま料理屋で働き借金を返済していくことを決意します。
この店に行けば夫に逢えるかもしれない。父の屋台で客あしらいは決して悪くなかったので、これからこの店できっと巧く立ちまわれるに違いない。現に今夜だって私は、チップを500円近くもらったのだもの。
そう前向きに考える私でした。
朝起きて坊やと二人でご飯を食べ、それから、お弁当をつくって坊やを背負い、小料理屋へ出勤する私。
椿屋のさっちゃん、というのが店での私の名前ですが、そのさっちゃんは眼の回るくらいの大忙しで、二日に一度くらいは夫も飲みにやってきて、勘定は私に払わせるのでした。そして夜遅く私のお店を覗いて「帰りませんか」と言い、一緒に楽しく家路をたどることも、しばしばでした。
そういう私に夫は「男には不幸だけがある」と言います。
さらに椿屋夫婦の愚痴を言う夫に「あなたは、あのおかみさんを、かすめたでしょう」と聞く私。
夫は「昔ね。おやじは、どう、気づいているの」と返します。そして次のように言うのでした。
僕はね、キザのようですけど、死にたくて、仕様が無いんです。生まれた時から、死ぬことばかり考えていたんだ。
皆のためにも、死んだ方がいいんです。それはもう、たしかなんだ。
それでいて、なかなか死ねない。へんな、こわい神様みたいなものが、僕の死ぬのを引きとめるのです。
盗んだお金の件はクリアされ、おまけに新しい職場で活躍できるようになった私。
これまでのとは一変し、生活は「浮々した楽しいもの」となります。
これは夫が勤め先の妻と不倫関係にあったことを承知した上で述べています。通常、夫が勤め先の女と肉体関係を結んでいたら気分は陰鬱なものになるはずですが、「楽しい」と私は言います。
「この店に行けば夫に会えるかもしれない」というセリフから、夫には会いたいという気持ちはあります。つまり、ヴィヨンの妻たる「私」は夫の不倫や愛人関係などは許容しているのではないかと考えられます。
レイプされた私の希望
やがて小料理屋で働く私は椿屋に飲みに来ているお客さんが一人残らず犯罪人ばかりだという事に、気が付き、夫などはまだ優しい方だと思うようになります
そしてお正月にはお店の客に私はけがされます。夫のファンだという潰れた男性を家に泊めたあくる日のあけがた、私は、あっけなくその男の手に入れられてしまいます。
私が店に着くと、前の夜から椿屋に泊まっていた夫は一人で新聞を読んでいます。私と夫はあの家を引き払い、この店に泊まって生活することを決意するのでした。
読んでいる新聞に自分(職業は作家です)が「人非人(にんぴにん、ひとでなしのこと)」と書かれているのを見つけた夫は「ここから五千円持って行ったのは、さっちゃんと坊やに、あのお金で久しぶりにいいお正月をさせたかったからで、人非人でないから、あんなこともしでかしたのです」
と言うのでした。
私は格別うれしくもなく、
「人非人でもいいじゃないの。私たちは、いきていさえすればいいのよ」
と言いました。
これで太宰治の『ヴィヨンの妻』は終わりです。
椿屋のお客さんと体の関係を持ってしまった「私」ですが、翌日もいつもと同じように仕事を行います。
そこで夫と出会った私は「いいお正月をさせてあげたかった」と言いますが、それに対してうれしい感情もなく「人非人でもいいじゃないの。私たちは、いきていさえすればいいのよ」と言います。
ヴィヨンの妻が求めるのは善き夫の姿ではなく「ひとでなしでも生きてさえすればいい」というものでした。
太宰治『ヴィヨンの妻』感想
私がこの『ヴィヨンの妻』を読んだ時、「私」のことが何も理解できませんでした。
夫は放蕩もので、家庭を顧みず、お酒と女に溺れる男性像が見えます。
しかし、「私」は夫に対してどういった感情を持っているのかがわかりかねました。
「私」は夫に何を思っているのか
夫が外で愛人をつくろうが、お金を盗んでこようが、子供をないがしろにしようが「可笑しさがこみ上げてきまして、私は声を挙げて笑ってしまいました」という表現からもわかるように、私は夫を全く責めません。
一般的な妻の行動は、夫に対して怒りをぶつける、悲しみに明け暮れる、見切りをつけて出て行く、のどれかでしょう。それそしないということは、妻は夫に対して無関心、無関係、寛容などが考えられます。
物語中盤で、「この店に行けば夫に会えるかもしれない」と私が考えていることから、無関心なわけではないことがわかります。
そして夫が盗んだお金を自分の責任で返そうとしていることから、無関係と思っているわけではありません。
となると、私は夫の行動を全て寛容しているのではないか?ということが考えられます。
「人非人でもいいじゃないの。私たちは、いきていさえすればいいのよ」という言葉はまさに、「ろくでなしな夫でも生きてたらそれでOK」という私の夫に対する思いそのものなのではないでしょうか。
そして何も求めてないがゆえに「五千円はお正月に使おうと思ってたんだよ~」という夫の白々しい言葉にも「格別うれしくもなく」感じたのです。
私はまさにヴィヨンの妻
もし私が夫の行動に怒りや悲しみを感じる人間だったらどうなるでしょう?
破綻ですw
怒って出て行くか、悲しみに明け暮れて自殺するかです。
つまり逆説的に、私が夫に何も期待しない女性だったからこそ、ヴィヨンのような(のような破綻した)夫の妻になれたのです。
まさに「私」は生まれながらにして小説の題名である「ヴィヨンの妻」だったのです。
精神的に依存する夫
夫はどうでしょうか?酒と女とお金に溺れる男ですよね。
そして夫は「ああ、いかん。こわいんだ。こわいんだよ、ぼくは。こわい!たすけてくれ!」と震えて妻に助けを求めるなど、妻に精神的な依存をしています。
そして夫のことを決して非難・否定しない「私」は夫がどのような状況であっても受け入れるのです。
言ってみれば神様のような存在ですね。
マズローの欲求階層とヴィヨンの妻
このように幸福に対する要件が非常に低い「私」ですが、これをマズローの欲求階層を使って説明したいと思います。
上記のように、人間にの欲求には5段階あり、下層の欲求が満たされなければ上層の欲求が発生することはありません。
生理的欲求は食事・性欲など人の根源に関わるもので、それがクリアされると安全欲求、つまり生活の安全や身分の安定などの欲求が発生します。次が社会的欲求で、家族や恋人、周囲からの愛情などの欲求です。
この図で言えば、ヴィヨンの妻は生理的欲求と安全欲求が満たされた段階で人生が満たされてしまっているわけですね。
社会的欲求がないために、夫に対する不平不満が沸いてこない、という状況にあると考えられます。
ヴィヨンたる夫と上手く関係性を築き上げられるのも、こうした「私」の特異性があり、その特異性こそが「ヴィヨンの妻」である理由なのでしょう。
太宰治の生涯については別途記事を書いていますので参照いただければ幸いです。