この記事では近代最初の女流作家と呼ばれる、樋口一葉の人生を記事にしています。
樋口一葉はどのような作品を発表し、どのような人生を歩んだのか?樋口一葉が生きた明治時代とは女性にとってどのような時代であったのか、そうした背景を説明しながら樋口一葉について掘り下げています。
また樋口一葉は生涯独身のまま他界しましたが、小説は男女間の軋轢や関係性を社会状況と絡めながら描いた作品が非常に多いです。現実での男性遍歴も樋口一葉の小説に大きな影響を与えていますので、どのような男性が樋口一葉の心を捉えていたのかも合わせて解説していきます。
Contents
樋口一葉の主な年譜
まず最初に樋口一葉の主な年譜を紹介したいと思います。
樋口一葉は24歳という短い生涯でしたが、後世に名前を残す小説を多数生み出しています。この年譜には書ききれないほどのことが樋口一葉の人生にはありましたが、詳細は後述していきたいと思います。
西暦 | 樋口一葉の年齢 | 出来事 |
1872年3月15日 | 0歳 | 東京府内幸町に生まれる |
1886年8月 | 14歳 | 萩の舎に入塾 |
1889年7月 | 17歳 | 父則義の死去、渋谷三郎との婚約解消 |
1891年4月 | 19歳 | 半井桃水と出会う |
1892年3月 | 20歳 | 処女小説『闇桜』発表 |
1893年7月 | 21歳 | たけくらべの舞台となった吉原遊郭付近へ引っ越し。駄菓子屋を開始。 |
1894年12月 | 22歳 | 『大つごもり』発表 |
1895年1月 | 23歳 | 『たけくらべ』発表 |
1895年9月 | 23歳 | 『にごりえ』発表 |
1896年8月23日 | 24歳 | 24歳の若さで他界 |
樋口一葉の人物相関図
樋口一葉の幼少期
樋口一葉は1872年(明治5年)、東京府の役人であった樋口則義・たきの次女として、東京で生まれます。
本名樋口なつ、樋口一葉は作家名です。
明治10年3月6日、樋口一葉は満4歳で現在の文京区にある本郷小学校へ入学します。しかし、幼少のため勉学に耐えられないという理由で僅か4週間で退学しています。その後、私立の吉川小学校へ入学しますが、手毬や羽つきなどを好まず、英雄・豪傑などの伝記を好んでいました。
4歳にして、すでに文学少女としての才能を開花させつつあったようです。
明治14年4月に転居のため吉川小学校を退学、私立青海学校へ転校、1883年(明治16年)5月に高等科第四級を首席で卒業しますが、「女子になかく(長く)学問をさせなんは行々の為よろしからず」という母親の意見に従い上級(三級)には進まずに退学します。針仕事でも学ばせて、家事の見習いなどをさせた方が良いというのが母親である、樋口たきの教育方針でした。
なお、この当時の小学校就学率は50%をはるかに下回っていたため、退学したと言っても樋口一葉は高学歴であったことを付け加えておきます。
樋口一葉と萩の舎
しかし、強い進学希望のあった樋口一葉を可哀そうに思った父の樋口則義は、一葉が小学校を退学した翌年の明治16年1月から知人の和田重雄に依頼し、一葉に和歌の通信教育を受けさせます。
また、この頃樋口一葉は後の許嫁関係となる渋谷三郎を紹介されます(この時樋口一葉はまだ13歳でしたが)。
そして明治19年の8月(樋口一葉14歳)、中島歌子が主宰する「萩の舎」に入塾し、和歌と書道を学びます。「萩の舎」は当時、特権階級の婦人や娘が通う所謂お金持ちが通う歌塾であり、門下生は1000人を超えていました。樋口一葉は士族ではありましたが下級役人の娘であったため、他の下級役人の子らと「平民組」などと呼ばれており、宮廷につかえる女房のような気持ちで通い、雑用をこなしながら才能を磨きます。
「萩の舎」では和歌を中心に、源氏物語や古今集などの古典文学の講義が行われました。樋口一葉の作品にもこうした古典文学をモチーフにしたと思われる小説がいくつか散見され、「萩の舎」での経験は樋口一葉の小説に大きな影響を与えたこととなります。
「萩の舎」を主宰していた中島歌子は子供がいなかったため、後継者問題が深刻だったと言われています。一葉の日記によれば、風邪で歩行困難になった中島歌子が一葉を呼び「『後事など託しておこうと思い呼んだ』と心細く泣いた」とあり、一葉を後継者にしようとしていたことがほのめかされています(が、結局は実現しませんでした)。
樋口一葉の家族と貧困
樋口一葉は後世に名を残す小説家になったので意外に思われる方も多いかもしれませんが、樋口一葉は貧困に喘ぐ生活を送っていました。簡単に言えば貧乏だったんですね。
それには樋口一葉の家族が大きく関係しているので、簡単に紹介していきたいと思います。
樋口家の長兄「樋口泉太郎」は明治18年2月、明治法律大学(現明治大学)に入学しますが1年半の在籍後退学します。
明治20年には関西で貿易などの事業を立ち上げますが、失敗。父の則義が警視庁を退職するのと同時に大蔵省へ務め始めますが、気管支カタル(実際には結核だったと言われています)のため休職、明治20年12月27日に23歳の若さで他界しています。
この時泉太郎を療養するための出費は樋口家の家計に大きなダメージを与えたと言われています。
次に父の樋口則義はどのような人物だったのかを見ていきましょう。
樋口則義は明治20年に警視庁を退官した後、出資者となり「荷車運輸請負業組合」設立の準備にかかります。明治になっても近距離輸送には人力や牛車が利用されていたため、そおの業務を行う会社を設立しようとしたわけです。
しかし役員の人事も定まらないまま脱会する者が続出し、設立は失敗に終わります。その後則義は「馬車運送同益社」の設立を画策するも、明治22年7月12日病に倒れて60歳でこの世をさります。父親の死去により家主となった樋口一葉は、17歳にして借金を背負いながら一家を支えることとなったのです。
最後に樋口家にはもう一人、樋口虎之介という次男がいました。
樋口虎之助は明治15年から21年まで六年間、成瀬誠至に弟子入りし、薩摩の陶器の絵付け絵師となっています。この6年間で虎之介は薩摩陶器の錦様焼着絵師として腕を上げており、明治28年頃になると一葉の生活を助けるほどの余裕があるほど稼ぎはあったようです。
しかし父親の死直後、樋口虎之助は貧困に窮した樋口家の家計を手助けすることはなかったようです。樋口則義の死後、虎之助の住む住居に樋口家は引っ越してきました。しかしそこで母親の「たき」との折り合いが思わしくなく、喧嘩が絶えない毎日だったと言われており、ほどなく別居をしています。このような母親と虎之助の確執により、樋口一葉は虎之助からの援助を受けることができなかったのです。
なお樋口虎之助は樋口一葉とは仲が悪かったわけではなく、後に樋口一葉が書いた小説『大つごもり』や『埋もれ木』に登場する人物のモデルともなっています。
このような家族の状態であったため、樋口一葉は父親である樋口則義の死後ほどなくして借金に追われる生活を強いられます。
そして不幸なことに父親の逝去を契機に樋口一葉にさらなる悲劇が襲い掛かります。許嫁関係であった渋谷三郎が、一方的に婚約解消してきたのです(理由は後述します)。
樋口一葉が小説家になった経緯
このような経緯で樋口一葉は抱えた借金を返済するために、金策に走る必要が出てきます。
萩の舎で小説を書き始めていた樋口一葉は、おなじ萩の舎で妹弟子の田辺花圃が『藪の鷲』にて原稿料33円20銭を得た事実を知り、家計を支えるため小説で生計を立てることを決意します。
つまり、樋口一葉が小説家になろうと思った直接的な理由はお金のためだったのです。
さて、小説で生計を立てようとした樋口一葉はその手始めに師匠を探すことになります。
明治24年4月15日、樋口一葉は東京朝日新聞の小説記者「半井桃水(イケメン)」に弟子入りするために訪問し、桃水はこれを快諾します。
図書館での独学や半井桃水の指導の元、小説の勉強を続けた樋口一葉は明治25年3月27日、雑誌「武蔵野」に樋口一葉の処女小説である『闇桜』が発表されます。その後『別れ霜』『たま襷』を立て続けに発表し順調に小説家としての道を歩み始めた樋口一葉ですが、師匠である半井桃水(イケメン)は樋口一葉と恋仲になってしまいます。
当時の桃水は31歳の独身(妻を亡くしていた)で、弟や妹そして妹の友人の鶴田たみ子を同居させるほど面倒見が良い人物でした。両親や兄の死、そして渋谷三郎(許嫁)の裏切りがあり、そこにイケメンの桃水に出会ったのですから、恋に落ちるのも無理はない話でした。
しかし半井桃水と樋口一葉のの噂は萩の舎に広がり、周りからも絶縁を勧められたこともあり、翌年明治25年6月22日(樋口一葉20歳)、樋口一葉は半井桃水としばらく交際を断つ旨を伝えています。
桃水との恋はこのように一旦終焉を迎えるのですが、樋口一葉にとっては恋と同時に小説で生計を立てることも必須でありました。同年、『五月雨』、『経つくえ』、『うもれ木』と精力的に新しい小説を発表します。
特に『うもれ木』は時代に取り残された絵師の悲劇を描いており、これまでの王朝風悲恋物語から飛躍したことがわかります。またこの作品では着想や文章の骨法を幸田露伴から学んでいることが明らかであり、『うもれ木』以降発表された小説もまた露伴の影響を受けていることがわかります。
そのような点から、この『うもれ木』は樋口一葉にとっての一つの転換点となる作品に位置づけられているのです。
翌年(樋口一葉21歳)2月19日には『暁月夜』を、3月31日にはある雪の日半井桃水に「ここに一宿したまへ」と誘われた日に草稿を思い付いた『雪の日』を発表します(発表した段階では半井桃水と別れていたので、物語は当初の構想と大きく違ったものになったと思われます)。
しかしながらこのような小説家活動にもかかわらず、明治26年3月30日頃の樋口一葉の日記には貧困の苦しさを綴る記述が増えています。
樋口一葉の起業と失敗、からの逆転劇
このような貧困状況を打開するために樋口一葉が次に打った言ってはなんと、商売を志すことでした。
そもそも樋口一葉が小説家になったのも貧困から逃れるため。お金を得るためには起業すらしてしまいます。
明治26年7月20日、樋口一葉21歳の時、龍泉寺町368、吉原遊郭の茶屋町通りに面した二階建ての長屋へと引っ越します。
ここで樋口一葉が商売として選んだのは、荒物(家庭用の雑貨類)・駄菓子屋。当初は利益の多い荒物中心の商売でしたが、次第に薄利多売の駄菓子へとシフトしていきます。
しかし職歴としては小説家しかない樋口一葉。この商売は結果的に失敗に終わり、1年を経たずして明治27年5月には店を畳みます。
なお苦境に立たされた樋口一葉は当時、相場師として名を馳せた久佐賀義孝を訪ねて相場師にもなろうとしています(後述)。
このように開業をしたものの、貧乏からの脱出がはかれない樋口一葉でしたが、人生何がどう転ぶかわからないもの。この吉原遊郭は、樋口一葉最大の代表作である『たけくらべ』の舞台となります。実際に樋口一葉の駄菓子屋へお菓子を買いに来た子供たちが、『たけくらべ』に出てくる子供たちのモデルになっていると言われており、この金物屋・駄菓子屋での生活がなければ『たけくらべ』は生まれていませんでした。
また樋口一葉は商いをしながらも、明治26年12月30日には『琴の音』を発表、翌年明治27年2月28日には『花ごもり』を発表し、小説家としての活動は並行して行っていました。
樋口一葉と奇跡の期間
店を畳んだ樋口一葉は、本郷丸山福屋町3番地に転居、明治27年5月30日に『やみ夜』を、同年12月30日に『大つごもり』を発表します。
この『大つごもり』以降『裏紫』を発表するまでの14か月は「奇跡の14か月」と呼ばれており、樋口一葉の代表作がこの14か月に集中しています。
翌年の明治28年3月30日には『たけくらべ』を発表、以降12月30日に最終章が発表されるまで全13章が「文学界」に掲載されます。
『たけくらべ』の執筆が続く間も、4月3日に『軒もる月』、5月5日に『ゆく雲』、8月下旬に『うつせみ』、9月16日に随筆『雨の夜』『月の夜』、9月20日に『にごりえ』、12月10日に『十三夜』、と次々に作品を発表していきます。
樋口一葉の作品の中で著名な作品を3つ上げろと言われれば、『たけくらべ』『十三夜』は必ず入るでしょうし、次点で『にごりえ』『大つごもり』が選ばれると思います。即ち、樋口一葉の作品の主要な作品はすべてこの「奇跡の14か月」の間に発表されていることになります。
樋口一葉の晩年と死
翌明治29年(樋口一葉24歳)になっても樋口一葉は小説を発表し続け、1月1日に『この子』、1月4日に『わかれ道』、2月5日に『裏紫(上)』を発表しています。
樋口一葉の評判はこのころから高くなり、それにつれ樋口一葉を訪問する者が非常に多くなり入門者も1月には3名増えています。
このように小説家としての名声も高まりハイペースで小説を量産し続けた樋口一葉でしたが、病気がその生活に影を落とすこととなります。
それは肺結核です。
1944年にストレプトマイシンという薬により結核の治療法が発見されるまで、肺結核は治療方法のなかった病気です。
明治29年3月ころから樋口一葉の肺結核の症状は進行し、4月には病症があらわれるようになります。同年5月10日に、『われから』を発表しますが、これが樋口一葉最後の小説となってしまいます。
明治29年8月上旬には山龍堂病院で、樋口一葉の妹「くに」が一葉の病状は絶望的であると宣告を受け、同年11月23日に24歳という若さで他界します。
くにの考えで葬儀は内輪にしたため、葬儀参加者は十余名であったそうです。
樋口一葉と時代背景
数々の名作を世に出した樋口一葉ですが、作品を今読むと時代錯誤を感じるような点が多く見受けられます。小説が発表されてから100年以上経過しているので当たり前の話なのですが。
樋口一葉が小説を執筆していたのは明治時代。そして樋口一葉は女性として、明治時代の女性の身分の低さを嘆くような小説を多数発表しています。樋口一葉の小説を読むにあたって、樋口一葉が生きた明治時代がどのような文化であったか知れば、より深く樋口一葉の小説を楽しむことができるようになるでしょう。
ですので、簡単に明治時代の背景を解説しておきます。
明治時代の女性には参政権がなかった
現在選挙権は18歳以上であれば男女分け隔てなく与えられますし、被選挙権も男女の区別はありません。しかしながら明治時代は社会参加は男性が行い、女性はそれを支えるものであるという風潮であり(世界的にそうでした)、日本で女性に参政権が与えらえたのは終戦後の昭和20年でした。
このように政治への参加資格を見ると、今に比べて女性の権利がいかに低かったのかがわかるかと思います。
明治時代の不倫と姦通罪
次に姦通罪(かんつうざい)について説明をしておきます。
姦通とは配偶者のある者の婚外性交のことであり、現在で言うところの不倫ですね。現在は不倫を行っても刑罰はありません(もちろん民事にて賠償金を支払うことはあります)。
しかし、明治時代は「姦通罪」という形で刑罰を受けることがありました。その内容は次の通りです。
妻が不倫した場合、その不倫相手とともに刑罰対象になるというものです。
「不倫くらいで刑罰なんて」と思われるかもしれませんが、それはさておきここで考えなくてはいけないのは、夫が不倫を行った場合は刑罰の対象にならないということです。現代の感覚からすれば、女性の不倫だけ罰せられるこんな不条理な刑法があってよいものか・・と思うのは当然ですが、明治時代はこのようなことがまかり通っていたわけですね。
この姦通罪については、樋口一葉は『裏紫』『われから』などで、テーマの一つとして作品内で扱っています。
樋口一葉と妾制度
樋口一葉の小説にはたびたび「妾」という言葉が登場します。
現代の言葉に変換すれば愛人ということになるのですが、現代の愛人関係とは少し事情が異なります。
明治時代、身分の高い人は自分の子孫を残すため(または性的な関係を持つため)に、妻以外の女をつくり子供を作らせることが公然と認められていました。「公然」ですので、妻はそのことを承知していましたし、職業の一つとして考えられていました。妾を養うには経済的な援助が必須でしたので、妾を持つことは男の甲斐性としても認知されていたのです。
妾制度は明治15年(樋口一葉が10歳の時)に刑法改正があり、廃止に至ります。
が、制度の廃止後も妾制度は戦前まで続くこととなり、樋口一葉の小説内では『わかれ道』でヒロインのお京が物語の最後で妾の道を選んだり、『十三夜』ではお関の夫の妾の有無について会話が交わされ、『われから』ではヒロイン「お町」を襲う悲劇の発端は妾の存在となっています。
このように、妾制度は樋口一葉の小説とは切り離すことのできない重要な要素だということを覚えておいた方が良いでしょう。
女性の不条理さを描いた樋口一葉
このような不平等な状況に置かれた明治時代(より以前の)女性たちでしたが、これを甘んじて受け入れていたわけではありません。
樋口一葉も小説の中で度々その不条理さを題材とし、制度の中で疲弊していく女性を描くことによって女性の嘆きを民衆に訴えかけたのです。
樋口一葉に影響を与えた男性たち
樋口一葉は、幼少から「萩の舎」で和歌や小説を学び、小説家となる下地を形成していきました。
しかしながら、小説を書くにあたり樋口一葉に経験を与えた男性たちが確実におり、その男性たちとの経験を基に小説が書かれています。
その男性たちを紹介していきます。
樋口一葉と半井桃水
半井桃水は樋口一葉と出会った頃東京朝日の小説記者をしており、夫人とは死別していたために独身でした。非常に面倒見の良い男性だったと言われ、未亡人となった妹幸子の長女を養女とし、大学まで進学させています。また従妹で未亡人になった子供も引き取り育てていました。
樋口一葉は明治24年、一葉が19歳の時に萩の舎の「野々宮菊子」の紹介で初めて半井桃水に会っています。目的は小説家として弟子入りをするため。
首尾よく半井桃水の快諾をえた樋口一葉でしたが当時の樋口一葉は父親を亡くし、許嫁にも振られ、借金まみれになるという悲惨な状況に置かれていました。そのような中、独身で面倒見のよい半井桃水に出会ったわけですから、当然のように恋心を抱いてしまいます。
半井桃水も一葉のことを悪くは思っておらず、明治25年2月4日の雪の降る日には「泊まっていく」ように勧められています。
しかし話はそう上手い具合には進みません。実は紹介者である野々宮菊子もまた半井桃水に恋心を抱いていたために話がひじょーーーにややこしくなってしまいます。
そんな中半井桃水の妹の友人である幸子が妊娠してしまいます。相手は半井桃水・・ではなく、半井桃水の弟の浩。
しかし、その妊娠の相手が半井桃水だと樋口一葉に吹聴した人物がいたわけです。おわかりですか?野々宮菊子ですね。怖いですねw(また当の半井桃水も弟を庇うためにそれを否定もしませんでした。)
恋敵に蹴落とすために嘘をついたわけですが、樋口一葉はそれに騙され死ぬまでその子の親は半井桃水だと信じてしまったのです。その結果樋口一葉は半井桃水と一時的に半井桃水と離別を決意。日記には「哀に悲しく涙さへこぼれぬ」と記しています。
しかしその後も半井桃水との交流は続き、明治28年の6月に出会った際には「ただ懐かしく、睦まじき友として過ごさんこそ願わしけれ」と綴っています。
樋口一葉と久佐賀義孝
21歳の時に『たけくらべ』の舞台となった吉原へ引っ越し金物屋と駄菓子屋を始めた樋口一葉でしたが、経営は軌道に乗ることなく店を畳みます。そして生活に困窮していた(常に困窮してますが)樋口一葉は、明治27年2月23日(樋口一葉22歳)に、久佐賀義孝の元を「秋月」と偽名を使い訪ねます。
その理由は、なんと相場師になるための金を借りたいたいから。
久佐賀義孝の職業は相場師・易学家・実業家。なんだかとても胡散臭いんですが、何にせよ樋口一葉は久佐賀の力で借金をなんとかしようとするわけです。
しかし金運がないという理由により、結局相場師になりたいとう一葉の願いは聞き入れられませんでした。それでも一葉はこれを契機とし久佐賀から1年に渡り借金をし続けることとなります。しかし久佐賀は慈悲深い男ではなく、明治27年6月9日には借金の肩代わりに身体を久佐賀へ売るように言われますが拒絶。同年12月7日には月15円で妾になるよう打診がありますが、これも拒絶しています。
結局翌年5月を最後に久佐賀との交渉記録は途絶えており、その後の関係は不明です。この久佐賀義孝と樋口一葉のやりとりをまとめると、妾関係を迫る久佐賀に対しそれをかわしながらも借金を重ねる樋口一葉という構図が見られます。
樋口一葉はこうした性的交渉を求める久佐賀に対して「しれ者」と激怒していますが、その裏では多額の借金をせしめていますのでどちらが「しれ者」なのかわかったものではありませんね。
久佐賀と樋口一葉が体の関係を持ったという記録はありませんが、久佐賀が何もせずお金を貸すような人物ではなかったため、実際には体の関係があったのではないかと言われています。同時に久佐賀との接触依頼後、作品に性的な匂いがするようになり小説が深まりを増したと言われており、こうした体験がなければ奇跡の14か月は無かっただろうとも言われています。
樋口一葉と渋谷三郎
明治18年(樋口一葉13歳)の時、一葉は父の友人である「真下選任之丞」の妾腹(愛人の子供)の孫「渋谷三郎」を紹介されます。
明治22年に樋口一葉の父・樋口則義は病に倒れるのですが、その際則義は渋谷三郎に一葉と結婚するよう頼み、渋谷三郎はこれを承諾したと言われています。つまり許嫁関係となったわけです。
しかし則義の死後、渋谷三郎は婚約を一方的に破棄してしまいます。その理由としては
- 則義の死後一葉が戸主となったため、渋谷三郎を婿養子にすることを望んだ
- 樋口家が落ちぶれた
- 仲介人の利権が絡んだ
などの理由があります。
しかし渋谷三郎は明治25年8月22日樋口一葉を突然訪問、後日人づてに求婚をしています。つまり渋谷三郎は樋口一葉との婚約を自分の意思で破棄したわけではなかったようです(少なくとも好きではあったようです)。
これに対して樋口一葉は彼のことをどのように思っていたのでしょう?求婚された時のことを日記に次のように記しています。
「去年判事補に任官して1年と経たぬほどに、検事に昇進して月給50円だそうだ。松永の家で初めて会った時は、私は14歳、渋谷三郎は19歳だった。何の優れた才能もなく、学もなかった。思えば世は有為転変(世の中のすべてのことは移り変わる)。その時の自分と今の自分を比べるとむしろ退化しているのではないかと思うほどなのに、渋谷三郎はこのように昇進していることに浅からぬ感情がある」
「浅からぬ感情」とは何なのか、気になりますねw
しかし別の日記には「私はもとよりこれ(渋谷三郎との縁談)に心惹かれるものではなかった。そうであるからと言って(破談のことは)憎いこともない」との言葉も見られます。
渋谷三郎との縁談は気の進むものではなく、破談についても気にしている様子はないようです。
しかしながら渋谷三郎との破談は樋口一葉の小説に大きな影響を与えていると考えられており、『やみ夜』の波崎や『ゆく雲』の桂次は渋谷三郎がモデルだとか『花ごもり』は渋谷との破談がヒントになっているだとか言われており、樋口一葉の小説とは切り離せない男性であることは間違いないところです。
なお、渋谷三郎は東京地方裁判所判事などを経て、早稲田大学教授、秋田県知事にまでなっており、超エリートな人生を歩んでいることを付け加えておきます。