この記事では太宰治の名作『富嶽百景』のあらすじと感想を書いています。
富嶽とは富士山のことで、『富嶽百景』の題名は江戸時代に書かれた葛飾北斎の「富嶽三十六景」から来ています。
富士山の麓の御坂峠で滞在している太宰治が人との出会いや発見により、富士への見識を変化させていくという物語です。
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太宰治『富嶽百景』の背景と簡単なあらすじ
皆さんは富士山にどのようなイメージをお持ちでしょうか?
富士は雄大で見るものを魅了する、日本一の山であると思われる方が殆どではないでしょうか?
しかし富士山は季節、時間、場所によって変貌を遂げ、また見る者の気持ちや状況によって人それぞれ見え方が異なるのはご理解いただけるかと思います。
この富嶽百景を執筆した時、太宰治は小説家として再出発する状況にありました。
富嶽百景が発表されたのは1939年でしたが、太宰は1936年から1937年にかけ薬物中毒で精神科病棟へ入院、その間に最初の妻である小山初代が不倫をしその後それが発覚、心中未遂をするという悲惨な体験をしています。
その後退廃的な生活を送っている太宰を見かねた師匠の井伏鱒二は、1938年9月太宰を連れて小説の舞台である御坂峠を訪れ2か月間滞在します。御坂峠滞在の目的は2つ、太宰治のお見合いと小説家としての再出発をかけた療養です。
この御坂峠滞在の間、太宰は後の妻となる石原美知子とお見合いをし、その後太宰の生活は安定、創作意欲も増し小説の内容も前向きで、優れた短編小説を次々に発表していきます。つまりは御坂峠への訪問は成功したわけです。
富嶽百景は1938年の御坂峠を舞台として、主人公である私=太宰治が御坂峠や縁談相手との出会いを通じ、富士山と対話をすることにより小説家としての自分を再生させていく前向きな物語となっています。
「私」が富士を訪れてから帰るまでで、富士に対する「私」の心境がどのように変化したかを追っていくことで、この作品の楽しさが増すのではないでしょうか。
太宰治『富嶽百景』あらすじ
富嶽百景は、実際に太宰治が体験した1938年の御坂峠での体験をベースとして書かれた作品です。
しかしながらあくまで体験をベースにしているだけで、小説の出来事がそのまま太宰治の身に起こったわけではなく、太宰治が御坂峠での出来事を通じて小説家として再生する物語にするために御坂峠での出来事は改変されてます。
ですので、小説の主人公である「私」=「太宰治」と100%捉えられるわけではなく、フィクションも含まれるという事を頭の片隅に置いていただければ助かります。
富士の頂角についての苦言
まず冒頭では富士山の頂角(富士山の頂上の角度)についての考察が始まります。
歌川広重が描いた富士は頂角85度、谷文晁の富士は84度、でも実際は東西へ縦断した場合は124度、南北の場合は117度である。
たいていの絵の富士は頂きが高く細く華奢(きしゃ)になっているが、実際の富士はのろくさと拡がっていて、決してすらと高い山ではない。
富士はあくまでニッポンのフジヤマとしてあらかじめ憧れているからこそワンダフルなのであって、見知らぬ人が何の知識なくみてもそんなに驚嘆しないだろう。
十国峠から見た富士は頼もしい
かつて十国峠(静岡県)から見た富士だけは、高かった。予測した頂よりも倍高いところに青い頂きがすっと見えた。それを見た私はおどろいたというより、げらげら笑った。人とは完全のたのもしさに接すると、まず、だらしなくげらげら笑うものらしい。
東京から見た富士は苦しい
東京のアパートの窓から見る富士は、苦しい。小さい、真っ白い三角が、地平線にちょこんと出ていて、それが富士だ。
3年前の冬、私はある人から、意外の事実を打ち明けられ途方にくれた。その夜アパートの一室でがぶがぶ酒を飲んだ。トイレの四角い窓から富士を見ると、富士が見えた。小さく、真っ白で、左のほうにちょっと傾いて、あの富士を忘れない。暗い便所の中に立ち尽くした私はじめじめ泣いて、あんな思いは二度と繰り返したくない。
御坂峠から見えた富士は通俗的
「私」は昭和十三年(1938年)の初秋に、山梨県の御坂峠に訪れます。峠の頂上に富士が良く見える天下茶屋(令和元年現在も店はあります)という小さい茶店があり、井伏鱒二が初夏のころから2階にこもって仕事をしており、「私」もその隣で仙遊しようとしていたのである。
井伏鱒二の許しを得た「私」は、当分その茶屋の世話になることとなり、厭でも富士と真正面から向き合うことになります。
そこは昔から富士三景のひとつに数えられているが、「私」は好かないばかりか軽蔑さえします。あまりに、おあつらいむきの富士だからです。言わば「まるで風呂屋のペンキ画だ」と「私」は評するのでした。
いよいよ物語の舞台である御坂峠に辿りついた「私」。1938年に療養とお見合いを兼ねて御坂峠を訪れた太宰治と井伏鱒二ですが、太宰は御坂峠から見える富士を俗っぽく注文通り過ぎるという理由で嫌います。「これぞ皆が知っている富士」という感じで趣がなかったのでしょうね。
そして、この「俗」というのが一つのキーワードになっていて、太宰は俗、つまり世間に敗れて富士に来ています。世間とは妻の不倫や薬物中毒を指します。そして、俗を超えた象徴であったはずの富士もまた来てみれば「俗」であったのでこれを嫌悪します。今後、私=太宰の俗=富士に対する価値観がどのように変化していくのかが富嶽百景の醍醐味になります。
三ツ峠からの富士は人間性に感動
その2~3日後、御坂峠よりも少し高い三ツ峠へ上った井伏鱒二と私ですが、濃い霧が吹き流れて来て、パノラマ台という断崖の縁に立ってみてもいっこうに眺望がききません。パノラマ台の茶店で熱い茶を飲んでいると、二人を不憫に思った茶店の老婆が奥から富士の大きい写真を持ち出し、崖の端に立って「霧が晴れたらこのように見える」と、懸命に註釈してくれた。
私と井伏鱒二はその富士を眺めて、笑った。いい富士を見た。霧の深いのを残念にも思わなかったのである。
富士の鳥瞰写真はありがたかった
その翌々日、井伏鱒二は御坂峠を引き上げることとなり、私は甲府まで私はお供をすることになります。なぜなら私は甲府である娘さんとお見合いをすることとなっていたからです。井伏鱒二に連れられ、私は縁談相手の家にお邪魔します。
客間に通されても娘さんの顔をみなかった私ですが、井伏鱒二がふと「おや、富士」と呟いて私の背後の長押を見上げます。後ろ捻じ曲げて長押を見上げると、富士山頂大噴火口の鳥瞰写真(上から全体を見た写真)が額縁にいれられて、かけられています。それは真っ白い水連の花に似ており、それを見てからだをねじ戻すときにその娘さんをちらと見ます。そして私は結婚を決意するのでした。
あの富士はありがたかった。
俗な富士に登る法師もまた俗であったという笑い話
井伏鱒二が帰京後、私は御坂峠へ戻り仕事をすすめる。
やはり俗っぽく感じられる御坂峠からの景色であるが、あるとき峠を登ってくる50歳くらいの小男がいた。名のある聖僧かもしれないと思った私だが、その男は茶店の犬に吠えられて周章狼狽であった。富士も俗なら法師も俗である。
ガラス越しの富士はよくやっている
新田という郵便局員が、ある日私の元を訪れる。
佐藤春夫の小説に太宰さんはひどいデカダン(退廃的な人)で性格破産者と書いてあったため、ここに来るのは決死隊だったと言うことを聞きます。私は部屋のガラス越しに富士を見ていたが、富士はのっそり黙って立っており、それを見た私は念々と動く自分の愛憎が恥ずかしく、富士はやっぱり偉いと思うのであった。
富士に化かされた話
郵便局員の新田とその友達の田辺の二人に、私は吉田という細長い町(現在の山梨県富士吉田市)に連れて行ってもらい、三人はまちはずれの古い宿屋で飲みます。
その夜私は眠れず、どてら姿で外へ出ますが、富士は明るい月夜に照らされる富士は青く透き通るようで、燐が燃えているように感じます。私は狐に化かされているようなきがし、また富士はしたたるように青いのです。自分のことを維新の志士だと思った私は、ずいぶん歩いて財布を落としますが、しかしそれらは全てロマンスだと思い、宿へ帰って寝ます。
富士に化かされたと感じた私は、あの夜のことを思いだすと変にだるく思われます。
御坂の富士に雪が降り、見直す
吉田で一泊したあくる日、御坂へ戻ってきた私。
「お客さん!起きて見てよ!」と甲高い声である朝娘さんが絶叫します。私がしぶしぶ起きて廊下へ出ると、娘さんは興奮して頬をまっかにして、だまって空を指します。
「いいね」と私が褒めると「すばらしいでしょう?」と娘さんは返すのでした。
富士には月見草がよく似合う
私が郵便局へ郵便物を取りにいったその帰り、バスの私の隣の席にに老婆がしゃがんでいます。
バスの女車掌は思い出したように車窓から見える富士の説明をしますが、老婆は他の遊覧客とちがい、富士には一瞥も与えず、富士と反対側の山道に沿った断崖をじっとみつめています。私はその様がからだがしびれるほど快く感ぜられ、老婆と同じ姿勢でぼんやり崖の方を眺めます。
すると老婆は路傍の一か所を指さし「おや月見草」と言います。
「富士には月見草がよく似合う」は有名な一節ですね。
雄大にそびえたつ富士と、それとは比べ物にならないくらい頼りない月見草が負けじとすっくと立っている姿に、「私」は感動を覚えます。このシーンは私=太宰治が月見草と同化し、富士山に立ち向かう、つまり退廃的な生活を送っていた私がその生活から脱却し、世間という大きな壁に立ち向かうことを決意する場面であるとも言えるでしょう。
また単純に、弱い月見草が強い富士山に立ち向かう姿を、判官贔屓が好きな我々日本人が美しいと思うも自然であると感じます。
富士の姿は、明日の文学になり得るか
10月の半ばをすぎても私の仕事(小説)は進みません。私は寝る前に部屋のカーテンをそっとあけてガラス越しに富士を見ます。
私は自分の世界観、芸術というもの、あすの文学というもの、いわば、新しさというもの、それらについて思い悩み身もだえします。
自分の目指すべきものは、素朴な、自然のもの、従って簡潔な鮮明なものをさっと一挙動で捕まえて、そのまま紙にうつしとること、それよりほかにはないと私は考えます。しかしそう思う時には眼前の富士の姿も別の意味を持つようになるのです。
眼前の富士の姿は、結局私の考えている「単一表現の美しさ」なのかもしれない。けれども、やはりどこかこの富士の、あまりにも棒状の素朴には閉口しているところもあり、これは違うと再び思いとどまるのでした。
太宰はあすの文学について考え、それを素朴な自然のものを一挙動で捕まえてそれを紙にうつしとろうと(紙に書いて小説化しようと)することと考えます。しかしそうなると、例えば富士を小説にする場合、眼前の富士の美しさをそのまま紙に写し取れば(紙に書けば)いいのかということになります。
でも富士の棒状の素朴さには閉口しているところもあり、そのまま紙に写し取るのは違うと感じるのでした。
このように、私がこれからの文学について悩む過程で好きではなかった富士を受け入れる様子が描かれていますね。
遊女たちを任せられる、たのもしい富士
10月の末に遊女の一団体が御坂峠へやってきた。私が2階からその様を見ていると、暗く、わびしく見ていられない感じがしました。
しかし二階の一人の男の気持ちはこれらの遊女に届くことはありません。私はただ見ていなければならないだけであり、私に関係したことではないと装ったが、かなり苦しく感じるのでした。
富士にたのもう。
突然それを思い付いた私は、おい、こいつらを、よろしく頼むぜ、そんな気持ちで振り向けば富士はまるでどてら姿に、ふところ手して傲然とかまえている大親分のようにさえ見えるのでした。
縁談を見守る、雪の積もった富士
そのころ、私の結婚の話はとん挫していました。ふるさとからは1円も助力がないということがわかり、これでは結婚式をあげられないからです。
これは縁談を断られても仕方がないと覚悟をきめたところ、縁談相手の母は「ただ、あなたおひとり、愛情と職業に対する熱意さえ、お持ちならば、それで私たち、結構でございます」と品よく笑いながら言います。
眼の熱いのを意識した私は、この母に孝行しようと思うのでした。
かえりに、娘さんがバスの発着所まで送ってくれます。歩きながら「なにか、質問はありませんか」と何を聞かれてもありのまま答えようと思っていた私ですが
「富士山には、もう雪が降ったでしょうか」と聞かれます。しかし、ふと前方をみると富士が見える。
「いまのは、ぐもんです。ばかにしていやがる」と答える私に、娘さんはくすくす笑うのでした。
実家からの援助がなく結婚式があげられそうにない「私」の謝罪を許容する縁談相手。
そして「なにか、質問はありませんか」という質問に対しては、おそらく実家からの援助が無い理由や結婚に対する疑問点の追求などがあって然るべきで、「私」もそれを覚悟していたのですが、蓋をあければ「富士山にはもう雪が降ったか」という質問。ここからでも富士は見えるというのに。
つまりはそうした相手が答えにくいであろう世俗的な質問は敢えてしない、純粋な婚約者の姿を見ることができ、それを富士は見守っています。
富士からの下山
11月にはいるともはや御坂の寒気は耐えられなくなってきます。これ以上この峠で寒気に辛抱していることも無意味に思われた私は、下山を決意するのでした。
山を下る前日茶店の椅子に腰かけていると、若い知的な娘さんがふたりがカメラのシャッターを切るよう私に頼んできます。カメラを覗き込んだ私は、赤い外套を着た二人の姿が罌粟の花に見えておかしくてたまらなくなり、二人の姿をレンズから追放して、ただ富士山だけをレンズいっぱいにキャッチして、パチリ。
こうして富士に別れを告げた「私」です。
軽蔑していた富士でしたが、多くの人の出会いや、その人たちとの触れ合いにより富士に対する価値観も大きく変化しました。縁談も富士のおかげで上手く行く運びとなり、心の平穏も訪れました。
そうした富士に感謝を込めて「お世話になりました」というセリフが出たのでしょう。
下山後、甲府から見た富士
そのあくる日、山をおりた。まず、甲府の安宿に一泊して、そのあくる朝、安宿の廊下の汚い欄干によりかかり、富士を見ると、甲府の富士は、山々のうしろから、三分の一ほど顔を出している。
酸漿(ほおずき)に似ていた。
富嶽百景の感想と解説
妻の不倫や自らの薬物中毒に起因した精神科病棟へ入院などにより退廃的な生活を送っていた太宰治が、富士の麓にある御坂峠での生活を経て小説家として再生を果たす『富嶽百景』。
御坂峠で富士を初めて見た「私」は、それを俗物的なものであるとして嫌悪します。それもそのはず、私は「3年前の冬、私はある人から、意外の事実を打ち明けられ途方にくれた=妻の不倫」などにより、世間を嫌悪しているからです。ここで富士は世間=俗物の象徴として取り扱われることになります。
しかし御坂峠に来てから、宿のおかみさんや娘さん、バスで居合わせたお婆さん、茶屋の老婆、甲府での見合い相手・・などとの触れ合いを経て、富士に対する見方が変化します。ある時はありがたく、えらいと感じる時もあれば、頼もしい存在であったり。
つまり人と触れ合う中で変化する「私」の心を、富士の姿に象徴させて物語は進んでいきます。
富士は世間の象徴として描かれていますので、富士に対する見方が変化するという事は、世間への見方も変化しているとうことです。富士の在り方を受け入れ、つまり世間の在り方を受け入れて、疲弊した太宰は活力を取り戻し、小説家として再生していくわけです。
『富嶽百景』最後の一文である「酸漿(ほおずき)に似ていた。」では、富士は完全に俗物になっています。ほおずきは極めて身近にありますから。でもそのほおずき=富士山は、「私」にとってすでに嫌悪の対象ではありません。むしろ朝日を浴びて赤く染まっているわけですから、これからの「私」の前向きな未来を象徴していると言えるのではないでしょうか。
『富嶽百景』小説と現実の違い
私=太宰治として読んでいると、太宰治は素晴らしい人物であるように思えますが、そこは小説。太宰治が御坂峠で体験した出来事が全て小説に反映されているわけではありません。
例えば、三ツ峠へ上った太宰と井伏鱒二は、濃い霧のせいで富士を見ることができませんでした。そこでの退屈さを太宰は次のように記しています
井伏鱒二は放屁したことを否定していますし、これは富士を見られない事の退屈さを強調させるための脚色と言えます。
そして、御坂峠を太宰が訪れた理由を
と描いていますが、実際は太宰が送っていた退廃的な生活を改善させるため、仕事場をセッティングして半ば強制的に御坂峠へ来させたのが現実です。
また、縁談相手にバス停まで送ってもらうシーンで
と質問したのは縁談相手、美知子の妹でした。この発言者を妹から美知子へと挿げ替える、縁談が美談へと昇華しています。
しかしながら、『富嶽百景』はあくまで事実を基にした小説ですので、作品に物語性を付与するためにこれらの脚色は必要であったと私は思います。
ただ小説の通り、この後太宰は退廃的な生活から脱却、縁談相手の美知子と結婚しその後しばらく、明るく前向きな小説を意欲的に発表し続けます。
この御坂峠での生活は太宰治にとって間違いなく重要な出来事であったと言えるでしょう。
太宰治の生涯については別途記事を書いていますので参照いただければ幸いです。