この記事ではビッグバン理論の元となるアイデアを示した、ジョルジュ=アンリ・ルメートルについて解説をしています。
ジョルジュ=アンリ・ルメートルはどのような功績をあげ、どのような人生を送ったのでしょうか?
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ジョルジュ・ルメートルの生い立ち
ジョルジュ=アンリ・ルメートルは、ベルギー出身のカトリック司祭であり宇宙物理学者・天文学者です。宇宙膨張則を発表し、宇宙が特異点から始まったというビッグバン理論の元となるアイデアを示しました。
ジョルジュ・ルメートルは(Georges-Henri Lemaître、1894年7月17日 – 1966年6月20日)は1894年にベルギーで産まれます。
ルメートルは17歳でルーヴェン・カトリック大学の土木工学科に入学しますが、1914年に第一次世界大戦の勃発に伴い勉学を中断し、ベルギー陸軍に入隊します。
戦争が終わると物理学と数学を学び、同時に司祭職に就くための準備に入ります。第一次世界大戦中に経験した戦争の悲惨な光景に深い衝撃を受けたジョルジュ・ルメートルはメヘレンの神学校に入学し、司祭となります。
しかしそのような状況の中でも、ジョルジュ・ルメートルの宇宙に対する好奇心は絶えることはなく、1920年に相対性理論を学びます。
1923年、ルメートルはケンブリッジ大学にて天文学者のアーサー・エディントンから恒星物理学や数値解析の手法を学び、翌年1924年にマサチューセッツ工科大学の理学専攻博士課程へ進みます。
ジョルジュ・ルメートルの功績
ジョルジュ・ルメートルがどのような功績を残したかを話す前に、宇宙が膨張しているという話を皆さんは聞いたことがあるでしょうか?
我々が生存している宇宙が膨張していることを発見したのはアメリカのエドウイン・ハップルで、1929年のことです。
ハップルは当時世界で一番大きな望遠鏡であった、ウィルソン山天文台の反射望遠鏡を使用し、我々の銀河系より遠く離れたところにある銀河の研究をしていました。
その研究の中、ハップルはあることに気づきます。
それは銀河の全てが観測者(地球)から遠ざかる動きをしていることです。そしてその遠ざかる速度はなんと、地球からその銀河までの距離に比例している、つまり遠くにある銀河ほど速く地球から離れていることを発見したのです。
ではなぜハップルはそのような法則を観測することができたのでしょう?
ここで少し身近なところで、音の話をします。
例えば救急車がこちらにサイレンを鳴らしながら向かってくるとき、そのサイレンは高い音に聞こえ、通り過ぎた後は低い音に聞こえます。これはドップラー効果と呼ばれる現象で「音などの波は発する物体がこちらに近づいてくると波長が短く(音が高く)、逆の場合は波長が長く(音が低く)なる」ということで説明ができます。
ドップラー効果についてのわかりやすい説明はリンクを参照にしていただければ幸いです。
実は光も同様の現象が見られるのです。なぜなら光も波(波長)だからです。光を出す天体が私たちから遠ざかるときには、光の波長が長くなります。
人間の目で認知可能な光のことを可視光線と呼びますが、可視光線のうち、波長の長いものは赤く、短いものは青く見えます。一番わかりやすいのは虹ですね。青い色に見えるのは波長が短い可視光線、赤色に見えるのは波長が長い可視光線なのです。
話を宇宙に戻します。光を出す天体が私たちから遠ざかるとき、その天体は何色になるでしょうか?
光の波長は長くなると赤く見えますので、赤く見えるはずですね(このことを赤方変移と呼びます)。ハップルはこの赤方変移の量を測ることで、銀河が遠ざかる速度と銀河との距離の間に比例関係があることを突き止め、現代ではその比例定数をハッブル定数と呼んでいます。
さて、ここまでハップルの話しかしてませんねwジョルジュ・ルメートルはどこへ行ってしまったのでしょうか・・?
ジョルジュ・ルメートルはハップルよりも先に宇宙の膨張を予見していた
実はジョルジュ・ルメートルはこのハップルが1929年に研究成果を発表するその2年前、1927年に同様の成果を発表していたのです。
ルメートルの論文は無名の仏語誌『ブリュッセル科学会年報』に掲載されたため、その成果は世界に知れ渡るのに時間がかかりました。
そしてルメートルは名声や評判にはあまり関心がなく、自分の論文や主張を広めたいという考えはなかったようです。1927年に論文を掲載後、ルメートルは「宇宙の起源は何かと」という新たなテーマを掘り下げることに腐心していきます。
ジョルジュ・ルメートルとはなんとも欲のない人物だったようです。
1931年にイギリスの天文学者アーサー・エディントンが、ルメートルの1927年の論文に解説文を付けた英訳を発表します。そして同年、ルメートルはロンドンに招かれ、英国科学会に参加。この席でルメートルは、特異点から始まる膨張宇宙説を提唱し、Primeval Atom(原始的原子)のアイデアを発表します。ルメートルは自分の理論を「宇宙卵が創世の瞬間に爆発した」と表現しましたが、後に「ビッグバン理論」と呼ばれるようになります。
ジョルジュ・ルメートルと特異点
ジョルジュ・ルメートルが提唱した「特異点から始まる膨張宇宙説」とはどういったものだったのでしょうか?
先ほどの説明のように、銀河は観測者である地球からどんどん遠ざかっていることから、宇宙はどんどん膨張していると考えられます。これが膨張宇宙ですね。
しかし、これを逆に考えてみましょう。
宇宙が膨張しているということは、時間を巻き戻していけば宇宙はどんどん縮小していくはずです。時間を限りなく巻き戻し切ると宇宙の始まりに到達します。それをルメートルは特異点と呼ぶことを提唱したのです。
特異点とは、現代の物理法則や科学では説明ができない点という意味を持ちますので、要は「よくわからない点から宇宙は発生した」とも言えます。現在の物理法則は宇宙ができてからの話ですので、宇宙ができる前、つまり特異点においての説明は我々人類では不可能なのかもしれません。
このジョルジュ・ルメートルの説は当初全く受け入れられていませんでした。アインシュタインは当時、宇宙は不動のものであるとの説を提唱していたため、このような宇宙が膨張しているということは認められなかったようです。
しかしアインシュタインは「宇宙項の導入(宇宙は静的な存在である)は生涯最大の失敗」と述べたことからもわかるように、後に宇宙は膨張していることを認めました。1933年、ルメートルが自分の理論を説明すると、アインシュタインは「この理論は私が今までに聞いた中で最も素晴らしく納得がいく説明である」と述べました。
ジョルジュ・ルメートルの再評価
1933年にルメートルが膨張宇宙の理論の研究を再開、詳細な論文をブリュッセル科学会年報に掲載することにより、ジョルジュ・ルメートルに対する評価が高まります。アメリカの新聞はルメートルを「新しい宇宙論物理学の先駆者」と表現しました。
現在、宇宙が膨張している速度を示す法則を「ハップルの法則」と呼びますが、近年、ジョルジュ・ルメートルの研究が詳しくわかるにつれ、その功績を認めようとする動きがあります。国際天文学連合(IAU)は総会の場で、「ハッブルの法則」にルメートルの名前を追加することを提案し、法則の新名称として「ハッブル・ルメートルの法則」を使用することを推奨するよう決定したのです。
ジョルジュ・ルメートルの受賞と晩年、そして死
ビッグバン理論の基礎を提言したジョルジュ・ルメートルですが、祖国ベルギーでもその功績は高く評価されます。主な受賞歴等を表にしました。
年月日 | 出来事 | 備考 |
1934年3月17日 | フランキ賞 | ベルギー科学界最高の栄誉 |
1936年 | ローマ教皇庁立科学アカデミーの会員に選出 | 1960年に議長に就任 |
1941年 | ベルギー王立科学芸術アカデミー会員に選出 | |
1946年 | 原始的原子仮説 を出版 | |
1953年 | エディトン・メダル受賞 | 最初の受賞者となる |
1964年 | 名誉教授就任 |
晩年、ジョルジュ・ルメートルはは勤務先の大学に初めてコンピューターを導入するなど、コンピュータやプログラミング分野に強く関心を持ったとされています。ルメートルは、宇宙のはじまりについての説を裏付けることとなる「宇宙マイクロ波背景放射」が発見されてまもなく、1966年6月20日に他界します。
ちなみに、1948年に発見された小惑星ルメートルはベルギーで発見され、ジョルジュ・ルメートルにちなみ命名されています。