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横光利一|新感覚派と呼ばれた新しい表現の探究者

投稿日:2019年5月4日 更新日:

横光利一

この記事では、明治生まれの日本の小説家であり、新感覚派と呼ばれた横光利一について解説をしています。

横光利一はどのような作品を作り上げ、どのような人生を送ったのでしょうか?

横光利一の生い立ち

横光利一の生い立ちを解説していきます。まずは年表を作成しましたのでご覧ください。

1898年 福島県に生まれる
1916年 早稲田大学高等予科入学
1921年 早稲田大学高等予科除籍
1923年 『蠅』『日輪』発表
1920年 『機械』『寝園』発表
1947年 胃潰瘍のため他界

1898年、横山利一は福島県に誕生します。

父の仕事の関係(鉄道の設計技師)で様々な都道府県を移り住みますが、故郷への想いが横光利一文学に大きな影響を及ぼしています。特に母の故郷である三重県では小学校時代の大半を過ごし「やはり故郷と云えば柘植より頭に浮かんで来ません」と友人にあてた手紙に記しています。

1916年に早稲田大学高等予科に入学しますが、都会での生活に慣れることができずに休学、入学して5年後には同校を除籍処分となっています。

しかし、その間小説『神馬』が雑誌に掲載されるなど小説家への道を歩み始めます。

横光利一の人物像と作風

横光利一と新感覚派

1923年、『蠅』『日輪』を発表した横光利一は川端康成と肩を並べて新進作家として名をあげます。1924年にはその川端康成と「文芸時代」を創刊、その語彙と詩のリズムから「新感覚派」と呼ばれるようになります。例えば、横山利一の『頭ならびに腹』は新感覚派の象徴的な作品となっていますのでその冒頭部分を紹介しますね。

「真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けてゐた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された。」

このように、奇抜な比喩・人とモノを同等に扱う擬人法などの文体が当時では革新的であり、「新感覚派」と呼ばれるようになったのです。「新感覚派」を定義すると、伝統的な言語表現に近代の感覚・意識を基調として再構成した、新しい感覚の作風と言うことができるでしょう。

さらに横山利一は「新感覚派」という枠を超え、新しい表現技法を模索します。1920年に発表された『機械』では町工場の人間模様をその内面に焦点を当てて描いており、小林秀雄は「外国にも例がないほど新しい手法である」として絶賛しました。

また、1935年には『純水小説論』を発表します。『純水小説論』は「純文学にして通俗小説、このこと以外に、文藝復興は絶対に有り得ない」と純文学と通俗小説の融合を主張します。

半年間の欧州旅行

1936年には、新聞社のヨーロッパ特派員として欧米へ旅立ちます。そこで横光利一は文化の違いや日本は後進国であることの認識、差別などを体験します。

これらの経験を元に1937年から『旅愁』の連載を始めます。戦後ということで娯楽に乏しい日本に於いて、『旅愁』は大ヒット作となりますが、最終的には未完に終わっています。

横光利一と戦争

1938年頃から1941年に開戦する太平洋戦争の影響が文壇にもおりてくるようになります。

横山利一は、祖国の勝利を信じる愛国者として戦時中にその愛国精神を公表しています。例えば特攻隊に関する精神を、1945年3月に発表した『特攻隊』に次のように記しています。

「私はこの特攻精神を、数千年、数万年の太古から伝はつて来た、もつとも純粋な世界精神の表現だと思つている。敵を滅ぼすといふがごとき、闘争の精神なら、すべてのものから別れる必要はない。運命に従ふとふがごとき、諦めの精神なら、訓練する要もない。歴史を創造する精神、といふより、むしろ、そのやうな創造の精神を支へ保つ、最も崇高な道徳精神だと思つている。」

また、文藝銃後運動(文学者が翼賛運動を行う組織)講演会に参加するなど、右翼的思想を強めます。

このような経緯から戦争終了後(日本の敗戦後)、連合国軍占領下の日本で横山利一は「戦時協力をした戦犯」として非難を受けることになります。

1946年には高村幸太郎や小林秀雄らとともに名指しで「直接的な戦争責任者である」と文学界から指名を受けています。

横光利一の死

1947年の12月、夕食後、胃に激痛を訴え意識不明となります(原因は胃潰瘍)。さらに12月30日には急性腹膜炎を併発し、49歳とう若さでこの世を去ることとなります。

私小説文学から離れ「新感覚派」と呼ばれる斬新な手法で小説を開拓した横光利一でしたが、晩年は太平洋戦争の責任を問われて失意の中他界します。

戦後、横光利一の小説ははそうした戦犯追及の中で否定されましたが、戦争の色合いが消えるについて横光利一の再評価が進んでいます。

川端康成の弔辞

横光利一と川端康成はともに「文芸時代」を創刊して以降も、非常に親交が深かったと言われています。

横光利一の死去に際しては弔辞を読み上げています。その弔辞は実に美しいものですので紹介しておきます。

君の名に添えて僕の名の呼ばれる習わしも、顧みればすでにすでに25年を超えた。君の作家生涯のほとんど最初から最後まで続いた。その年月、君は常に僕の心の無二の友人で会ったばかりでなく、菊池さんとともに僕の二人の恩人であった。恩人としての顔を君は見せたためしがなかったが、喜びにつけ悲しみにつけ、君の徳が僕を潤うのをひそかに感じた。

横山君

僕は日本の山河を魂として君の後を生きてゆく。幸い君の遺族に後の憂えはない。

 

横光利一の作品

最後に横光利一の作品を紹介して記事を締めたいと思います。

蠅(1923年)

横光利一が文壇デビューを果たした作品です。

馬車に乗車している複数の客。それぞれ駆け落ちの男女、危篤の息子の知らせを聞いて急ぐ農夫、お金持ちの紳士・・・など諸事情を抱えた人間が乗り合わせます。そして、もう一匹、蜘蛛の巣から脱出を果たした蠅が馬の背に乗っています。

その蠅目線から物語は進むのですが、終盤でその馬車は崖から落下していまいます。

人間と蠅の生死を、蠅の目線から描いた作品になっています。

様々な人間模様が描かれ、その人間たちは崖下へと落ちていくのですが、蠅から見るとそういった人間の複雑な関係や出来事はどのように見えたのでしょうか?

機械(1930年)

新手法を用い、独特の文体で物語が進む横光利一の代表的作品です。

「私」の目線から、ある町工場で起こる従業員同士の葛藤や憎しみ、そしてそれから起こる悲劇的結末が語られます。

工場の従業員の「私」と「軽部」そして工場へ応援に来た「屋敷」を3人を主軸として物語は進みます。

工場では製造しているプレートに関する研究もおこなわれているのですが、その研究を「屋敷」は盗んでいるのではないかと疑う「私」。「屋敷」と「私」はグルなのではないかと疑う「軽部」。そして物語の終盤「屋敷」は死んでしまうのですが、それは事故なのか、「私」がやったことなのか「軽部」がしたことなのか・・・。

小林秀雄はこの『機械』を絶賛し、海外でも注目されることとなりました。

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