この記事では、指揮者であり政治家としても著名なクルト・マズアについて解説をしています。
クルト・マズアはどのような功績をあげ、どのような人生を送ったのでしょうか?
クルト・マズアは何をした人なの?
クルト・マズア(1927/07/18~2015/12/21)は旧東ドイツの指揮者で、ドイツのライプツィヒにて音楽・指揮を学びます。ライプツィヒで音楽を学んだことは、彼の後年の行動に大きな影響を与えることになります(後述)。
指揮者として歴史に名を刻まれていますので、当然指揮者としても著名なのですが、指揮者というよりは政治家としての面が有名かもしれません。
指揮者なのに政治家?
ちょっと不思議に思われるかもしれませんのでこれから解説をしていきたいと思います。
クルト・マズアの生い立ちと経歴
クルト・マズアは1927年、ドイツ東部シュレージエン地方に生まれ、ライプツィヒでピアノ・作曲・指揮法を学びます。
1955年、クルト・マズアが28歳の時にドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者を務めるようになります。
ドレスデン・フィルハーモニーは日本でも公演を行っており、チケット代がS席14,000円ということからもわかるように、人気の高いオーケストラ団です。
株式会社音楽之友社が発行する雑誌「レコード芸術」による世界のオーケストラランキング2017によると、ドレスデン・フィルハーモニーは第5位に位置しており、世界的にも有名なオーケストラ団であることがわかります。
クルト・マズアとドイツ再統一
東ドイツで指揮者としての名声を確立したクルト・マズマでしたが、それは東ドイツでの話。実はクルト・マズアを世界的に有名にしたのは東ドイツと西ドイツの統合でした。
1990年10月3日に、東ドイツはドイツ連邦共和国へと吸収されます(ドイツ再統一)。
1989年11月9日に起こったベルリンの壁崩壊という出来事は有名ですが、そのベルリンの壁崩壊につながったとされる1989年10月9日のライプツィヒの月曜デモにおいては、民主化を要求するデモ参加者が7万人にも達します。
強権的体制を敷いていた東ドイツの当時の政治家エーリッヒ・ホーネッカーは、このデモに対して武力弾圧も視野に入れていました。しかしクルト・マズアは東ドイツ当局に対し、市民への武力行使を避け平和的解決を要望するメッセージを発表します。
これを受けて政権側はデモに対して武力で弾圧するのではなく、現地の安全確保を行う決定を下し、市民と政府の武力衝突は避けられます。この市民が血を流すことを防いだクルト・マズアの行動は世界的に注目を集めます。
1989年10月9日のライプツィヒの「月曜デモ」から20年が経過した2009年の10月、ライプツィヒのゲヴァントハウスで、その20周年を祝う記念式典が執り行われます。この記念式典にはメルケル首相、ケーラー大統領など各国の要人が出席し、クルト・マズアが指揮するライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によるコンサートが行われました。
このような経緯から、音楽家としての功績よりむしろ政治活動での名声が世界に広がったマズアですが、その後音楽活動においても非凡な活動を行います。
クルト・マズアの受賞歴
1991年にクルト・マズアはアメリカ5大オーケストラのうちの一つ、ニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督に就任します。
また、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者(2000-2007年)、フランス国立管弦楽団音楽監督(2002-2008年)なども務め、国際的な指揮者として名声を享受することになります。
このような政治面・音楽面での活躍は、世界で勲章を受けることに繋がります。
クルト・マズアは1995年にドイツ政府から大功労十字章、2002年に大功労十字星章、そして2007年には大功労十字星大綬章と3度の功労勲章を授与されます。
ちなみにドイツの功労勲章は9つの等級があり、2007年にクルト・マズアが授与された大功労十字星大綬章は上から4つ目の等級ですね。
また、フランス政府からは1997年に レジオンドヌール勲章(コマンドール章)を授与されています。フランスの勲章制度は5等級からなり、コマンドール章は真ん中の等級になります。
次の動画はクルト・マズアが指揮をとっているオーケストラ団の動画です。
クルト・マズアとメンデルスゾーン
また、クルト・マズアは自らが音楽を学んだライプツィヒに対して敬愛の念があると考えられます。
自らが音楽を学んだ地であるライプツィヒにある、ライプツィヒ音楽院(ドイツの最初の音楽大学)を設立したフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディの作品の研究と普及に1990年代より努め、1991年にフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ基金を設立し、メンデルスゾーンの再評価を進めました。
メンデルスゾーンはユダヤ人の家計であり、反ユダヤ主義のおありを受けて過小評価されがちでしたが、クルト・マズアの貢献もあり近年はメンデルスゾーンは再評価されつつあります。
クルト・マズアの私生活と死
クルト・マズアの私生活の話をしておきます。
クルト・マズアは3度の結婚歴がありますが、1972年に自らの居眠り運転により、2番目の妻を亡くしています。
3番目の妻は日本人の声楽家、桜井偕子です。桜井偕子との間には息子ケン・マズアがいます。(写真中央が桜井偕子)
現在、ケン・マズアはサンアントニオ交響楽団で常任指揮者を務めています。
またクルト・マズアと先妻との娘カロリン・マズアはオペラ歌手として活躍しております。まさに音楽一家なわけですね。(写真左がカロリンマズア)
クルト・マズアは2015年12月19日に死去しますが、死亡の原因はパーキンソン病による合併症と言われています。
パーキンソン病は、手の震え・筋肉が固くなるなどの症状が現れる病気です。神経伝達物質であるドパミンが減少することによる起こる症状ですが、症状が進行すると寝たきりになり合併症を誘発しやすくなります。
88歳という年齢で死去したクルト・マズアですが、音楽分野および政治分野で活躍、数々の賞や勲章を授けられた、後世に名を音楽家であると言えるでしょう。