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太宰治 小説家

太宰治|5回の自殺と太宰を愛した女性たち

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太宰治

太宰治の生涯について詳しく記事にしました。

太宰治といえば、人間失格や斜陽などの位「暗い」小説が有名です。

その裏では5回の自殺未遂や女生徒の偏愛など、小説の題材となりうる多数の経験を太宰はしています。太宰はどのような生涯を送ったのか見ていきたいと思います。

太宰治の年譜

まず最初に太宰治の主な年譜を紹介したいと思います。

太宰治は1909年、今から110年ほど前に青森県の地主の子として生誕、子供の頃から小説家としての才能を見せ始めます。芥川龍之介を崇拝し、太宰が高校生の時に死去した際には人生を変貌させるほどの衝撃を受けたと言われています。

太宰治の人生で特徴的だと言えるのは、自殺(未遂)の回数。自殺を試みた回数は計5回、そのうち心中を試みたのは3回あります。

また結婚を2回行い、2回目の結婚生活においては愛人を2人つくり、愛人との間に子供も設けています。

そして太宰の最後は愛人との心中。波乱万丈という言葉がふさわしい太宰の人生を振り返っていきたいと思います。

西暦 太宰治の年齢 出来事
1909年6月19日 0歳 青森県に生誕
1916年4月 6歳 小学校へ入学
1923年4月 13歳 青森中学校へ入学
1927年4月 17歳 弘前高等学校へ入学
1927年7月 18歳 芥川龍之介の死去に衝撃を受ける
1927年9月 18歳 芸子「小山初代」と出会う。後の妻となる。
1929年12月 20歳 一回目の自殺未遂
1930年4月 21歳 東京大学入学
1930年11月 21歳 田部シメ子と自殺未遂(2回目)
1931年2月 22歳 小山初代と同棲
1935年3月 27歳 首つり自殺未遂(3回目)
1936年10月 28歳 薬物中毒のため入院
1937年3月 29歳 小山初代の不倫が発覚、自殺未遂(4回目)
1937年6月 29歳 小山初代と離婚
1938年11月 30歳 石原美知子と婚約
1940年5月 31歳 走れメロス
1947年2月 39歳 太田静子と愛人関係に
1947年11月 39歳 愛人太田静子との間に女児生誕
1948年 39歳 愛人山崎富栄と入水自殺

太宰治の人物相関図

太宰治は新興商人地主である祖父とそれを引き継ぎ政界へ進出した父を持つ、いわゆるお金持ちのボンボン息子として生まれます。太宰治は六男ですが長兄と次兄が生まれた年に他界しているため実質的には三兄文治が事実上の長兄の位置にあり、太宰は四男ということになります。

太宰治の記事を書くにあたり外せないのは太宰を取り囲む女性たちです。太宰治は2度の結婚をし、2人の愛人をつくるなど超モテモテの人生を送っています。

文学界では井伏鱒二を師匠に持ち、生涯を通じて井伏に多大な迷惑をかけています(と同時に井伏鱒二の懐の深さがわかります)。

詳細については記事中で解説をしていきますが、簡単に人物相関図を作成しましましたのでご覧下さい。

太宰治人物相関図

太宰治の生まれ

太宰治(本名:島津修治)は明治42年(1909年)6月19日生まれの小説家です。

太宰治の祖父は青森県で新興商人地主として成功。それを継いだ太宰の父島津源右衛門もその事業を拡大させ、明治37年には県内長者番付にランクされるに至ります。さらに源右衛門は政界へ進出、県会議員から衆議院議員となっています。

また島津家の長兄である島津文治も同様に、青森県知事を経て衆議院議員へと政界進出を果たしています・・・が、太宰治のせいで後に多大な迷惑を被ることとなります

明治39年に島津源右衛門は、周辺に役場や郵便局・銀行などを配置するほどの壮大な豪邸を青森県内に新築し、太宰治はその大豪邸での最初の子として産まれます。

太宰治の生後と才能開花

生後まもなく産後の体調が思わしくない母「たね」に代わり、乳母が太宰治を育てますが、その乳母も結婚のため1年で島津家を去ります。

その後太宰治は叔母に育てられることになりますが、叔母の「きね」は世話焼きが好きな人物であったため、太宰のこともたいそう可愛がり寝る場所も叔母の部屋であったということです。

こうした大地主の子であったことや乳母・叔母の手により育てられたことは、太宰の後の文学に大きな影響を与えることなります。

その後叔母の選任女中として近村タケが島津家に入ります。タケは叔母から太宰の子守を命じられ、日中の多くを太宰と過ごします。タケは太宰を屋敷の外によく連れ出し、彼女自身の遊び馴れた場所で太宰とともに過ごした。また、タケは太宰に文字や道徳を教え、小学校への付き添いをするなど、実質的な育ての親の役割を果たします。

タケとの別離と再会は、太宰の『津軽』という作品に感動的な描写で描かれています。

太宰は5歳になると文字を教わり本を読むことを覚え、就学前にも関わらず小学校へ通うようになります。小学校へ入学した太宰は入学早々から秀才ぶりを発揮することとなります。

色白で痩せ型であった太宰治は一見病弱のように見えますが実はとても健康であり、5年生からは無遅刻無欠席でした。また秀才であった反面おどけてクラスメイトを笑わせる人気者であり、時には教師に悪戯をして窓から投げ出されたこともあったということです。

太宰治の中学校時代は成績優秀児

小学校を卒業し中学へ進学することを当然のように思っていた太宰治でしたが、思わぬ落とし穴にはまってしまいます

父親の意向により1年間、高等小学校へ学力強化の為入学することとなったのです。

これは太宰の兄たちが小学校を卒業し中学へ進学した際、勉強についていけずに落第をしていたのが理由でした。実は親が多額の寄付金を学校へしていたので、島津家の子供たちは毎年成績に関わらず全ての科目で一番良い評価をつけられていたのです。太宰治は実力で良い評価を得ていたわけですが、兄たちと同じだろうと父親に疑われ、中学へは進学させてもらえなかったわけです。

つまりは可哀そうなことにとばっちりを受けたわけですね。

なお太宰治は後年、自伝作品の中で自分のことを「病気のために学校をしょっちゅう休んでいる虚弱体質の少年」としていますが、これは嘘です。屈辱的な体験を健康問題にすり変える太宰治の意図があったと思われます。

翌年中学受験を無事合格した太宰治でしたが、受験勉強が追い込みに入っている最中に父の源右衛門が東京で急死します。地元の新聞は源右衛門の逝去を連日報道し、政治家および実業家としての業績を称えています。

県立青森中学に合格した太宰治は、通学のため青森市内の親戚の家へ下宿し中学へ通います。中学では「北郷会」という親睦サークルがあり、そこでは縦型の社会が形成されていました。

1年遅れて中学へ入学した太宰治は、中学の同級生が先輩面をしていることを屈辱的に感じたようです。しかし太宰治はそれを巻き返すため、猛勉強に励みクラスのトップの成績をあげることに成功します。

中学へ入学した太宰は読書に勤しみ、芥川龍之介・菊池寛・志賀直哉などを読みふけり太宰治の小説家への道が開き始め、校内でも同人誌を発行するなどします。しかし夜に創作活動、朝に勉学に励むという生活を守っていたため学力は落ちず、3年生になると学年のトップになるほどの成績優秀者でした。

太宰治は高校で大きな転換点を迎える

中学を卒業した太宰治は昭和2年弘前高等学校を受験して合格、島津家の名を背負い勉学に勤しみます。しかし昭和2年7月、実家に帰省していた太宰は芥川龍之介自殺の知らせを受けて驚愕します

これを機に生活は一変。学業を放棄するようになり、やがて太宰は花柳界(かりゅうかい・芸者や遊女がいる界隈)へ足を運ぶようになり、そこで出会った芸者紅子(小山初代、後に太宰の最初の妻となります)を気に入り頻繁に指名するようになります。

小山初代

こうして高校1年目から生活を大きく変えた太宰は、2年生になると勉強を全くしなくなり、同人誌を創刊など創作活動に打ち込んでいきます。

この時代文学界を席捲していたのはプロレタリア文学(虐げられた労働者の厳しい状況を描いたもの)が全盛期で、太宰治もその流れに乗り、太宰治と自分の父(資産家であり労働者とは対極にある)のことを描いた『無間奈落』を同人誌に掲載します。

また同人誌の発刊に携わった人の中からマルクス主義者(社会主義者=階級のない社会を目指す主義者)と接触し、校内で左翼活動を行うようになりますちなみにこの時代は、治安維持法により過激的な社会主義運動は取り締まられていましたので、太宰のやっていたことは違法であり取締りの対象となります。

太宰治、一回目の自殺を試みるも失敗

芸者遊びと小説家活動という忙しい毎日を過ごしていた太宰治ですが、高校3年生2学期の期末テスト前夜に多量の薬物を服用し自殺未遂を起こします後にその理由を「私は賤民ではなかった。ギロチンにかかる役のほうであった。」と『苦悩の年間』で語っています。

これを解釈すると「太宰治は親が金持ち(搾取する側)であるのに、思想はプロレタリア(身分の低い人の困窮)であったことに悩んでいたので自殺した。」ということになります。しかし試験前の自殺未遂ということから、成績低下による留年不安と自分の階級(お金持ち階級)が崩壊することへの懸念が理由ではないかとも言われています。

また、自殺未遂後の静養中に左翼活動家が一斉に検挙されており、太宰の自殺未遂はこれを逃れるためのものだったのではないかとも言われています。

昭和5年3月太宰は弘前高校を卒業し、東京帝国大学(現東京大学)へ進学します。

太宰治、東京大学へ入学し井伏鱒二の門下へ

東大へ進学した太宰ですが、身の回りにさまざまな変化が起こります。

まず、高校時代から同人誌「座標」に連載していた『地主一代』の中止を島津家の長兄文治から言い渡されます。この作品は悪徳地主の生活を暴露したものだったのですが、島津家の内部告発小説にもあたり、島津家として放置していくわけにはいかなかったようです。

(この時以来、島津家の長兄であり責任感のある文治と、自分の好き勝手に生きる太宰治との長い戦いは始まるのです・・・)

また高校の頃から続いていた左翼活動も継続、東京大学内の左翼活動家からの勧誘に根負けし、島津家に内密にするという条件で月額10円の資金を提供することとなります。

そして小説家活動として以前から計画していた、井伏鱒二の訪問を実行させます。会ってくれなければ死ぬ」という手紙を事前に送り付け井伏鱒二を訪問した太宰治は、井伏鱒二の門下生となることに成功します。

太宰治、小山初代と同棲する

高校時代に芸者遊びを覚えた太宰治は、芸子として「玉家」で働いていた芸者紅子(本名小山初代)と出会います。小山初代は昭和5年9月(太宰治は22歳)、店から突然逃げ出して行方をくらまします。

その行先は太宰治でした

太宰が小山初代に「東京で一緒に暮らす」ことを持ち掛けたからなのですが、太宰は芸者と同棲して江戸の文化に触れながら暮らすことを目的としており、小山初代は結婚を考えており両者には大きな食い違いがありました。

そんな折、初代は青森の有力者から「妾にしたい」という申し出があったため、太宰の指示に従い太宰ののところへ逃げ出してきたのでした。

太宰治、実家から絶縁されて2回目の自殺を試みるも失敗

長兄文治は、小山初代が太宰の元へ逃げたことを初代の勤め先である「玉家」の女将から、また太宰治のが左翼活動を行っていることを知人から知ります。

女遊びはさておき、左翼活動はするたと父親の代から言われてきた島津家の長兄としてこの問題に頭を悩ませることになります。

しかし昭和5年11月、遂に文治は太宰治の下宿先を突然訪問し、初代と左翼活動の件を問い詰めます。初代と暮らす意思を確認した長兄文治は、太宰に対して条件付きの結婚を提案します。それは次のようなものでした。

  • 分家除籍を行う(島津家から外れる)
  • 財産分与は保留
  • 2人の生活費として大学卒業まで月120円の支給

この契約書に署名した太宰でした・・・が、分家除籍とは家から勘当されたことを意味したんですね。分家除籍の表面上の理由は芸者との結婚ですが、実のところは非合法に左翼活動に参加していることが理由であり、保守政治家の長兄文治の自己保身のためでした。

分家除籍による戸籍謄本を手にした太宰治は、悲しみと絶望からいきつけのカフェのホステスである「田部シメ子」と鎌倉の海岸で薬物による自殺を図ります

田部シメ子

田部シメ子は当時19歳で、内縁の夫が失業中であり銀座のカフェへ働きに出ていました。夫の失業により精神・金銭的にも落ち込んでいた田部シメと絶縁により苦しんでいた太宰治がお互い死の道を選んだものとされています。

しかし太宰治は生き残り、田部シメ子だけが死ぬという結果になります。この件に関して自殺ほう助の疑いで取り調べを受けた太宰治でしたが、起訴猶予になっています。当時この事件を担当した刑事と地方裁判所所長は偶然にも太宰治と同郷の人物であり、つまりは長兄文治から手が回っていたものと推測されています。

なお、この事件は島津家と小山家が結納を交わした直後に起こっており、事件の後小山初代は太宰を激しく罵ったといわれています。

この事件で県会議員であった長兄文治は辞表提出して自宅謹慎、再び上京して太宰治と新しい契約を結ぶことになります。

内容としては

  • 初代との生活が破綻した場合は仕送りが120円から80円に減額されること
  • 大学から処罰を受けた時、退学した時、卒業の見込みがない時、社会主義運動に参加したり金銭や物質的援助をしたと時は、生活費と授業料の停止または廃止をすることとする

などが盛り込まれ、島津文治が太宰の社会主義運動に釘を刺す意図が透けて見えます。

太宰治、左翼活動を停止させられる

このように長兄文治と新しい覚書を交わした太宰治でしたが、左翼活動家との縁は切れません。

左翼活動家からの指示に従い仕事を手伝っていた太宰治でしたが、昭和7年ごろになると警察による太宰への身辺調査が行われようとします。が、当時の太宰は左翼活動家の指示に従い住居を転々としていた時期であり警察は所在地がつかめません。

そこで青森署は長兄文治に捜査協力を依頼することとなります。(一体何度長兄に迷惑かけるんでしょうか

長兄文治にとって太宰の左翼活動は(違法行為であるため)自身の政治活動に関わります。そこで長兄文治は先日結んだ覚書に従い、太宰治に書状を送ります。内容は

  • 左翼活動は覚書に抵触するので、送金を停止する
  • でも内密に青森警察署へ出頭して左翼活動を辞めれば送金を継続する。そうしなければ今後は絶縁。

太宰に甘いとも自己保身のためとも取れる内容ですね。太宰が捕まってしまえば自分の政治生命も危ういわけですから。

生活費がなければ太宰は悲しいながらも生きていけないため、青森署へ出頭恐らくは社会主義からの「転向」を誓約したものと思われ、それ以降太宰が左翼活動に関わることはありませんでした。ここでも長兄文治の政治的な力があったため、左翼活動に対する強い追及はなかったものと思われます。

太宰治、大学を卒業できないから3回目の自殺するも失敗

長兄文治との契約により昭和8年3月までに大学を卒業する必要があった太宰治でしたが、井伏鱒二の元で続けていた小説家活動と左翼活動のために大学の講義には殆ど出ていませんでした。

この堕落っぷりを太宰は後年、『東京八景』にて次のように記しています。

「私は見事に裏切った。卒業する気はないのである。信頼している者を欺くことは、狂せんばかりの地獄である。」

自己陶酔の強さが表れていますが、こんな良い文章を書いても授業には出ません。昭和8年に期限を過ぎても2年間は長兄文治の計らいにより仕送りを継続してもらっていた太宰治でしたが、とうとう昭和10年3月リミットを迎えます。

焦った太宰治は都新聞(現在の東京新聞)の入社試験を受けます。就職することで贖罪し、仕送りの継続を狙ったのである・・・が、入社試験は失敗。時事問題が全くできていなかったそうです。これを受けて太宰治は昭和10年3月15日、自殺する旨のメモを残して鎌倉八幡宮の裏山で首つり自殺を図ります

が・・・紐が切れて失敗します(自殺未遂3回目)。

事件後太宰を田舎へ連れ帰るために上京した長兄文治でしたが、太宰の師匠である井伏鱒二らの助言もあり、1年間は仕送りを続けることとなります。

なおこの自殺未遂事件を太宰は『狂言の神』で小説家しています。

太宰治、今度は薬物中毒になる

長兄文治に灸を据えられた太宰治。しかしその長兄が青森へ帰った後、急激な腹痛に襲われて病院へ運び込まれてしまいます。病院で下された診断は「盲腸炎」。手遅れかもしれないという急を要する容態でした。

井伏鱒二立ち合いの元、すぐに手術が執り行われます。結果的に手術は成功するのですが、3か月の入院期間中、太宰治は別の病気になってしまいます。

薬物中毒です。

手術後に腹膜炎を併発した太宰治は治療の度に苦痛を訴え、担当医は鎮痛を目的としてパビナールを処方します。しかしこのパビナール、麻薬性鎮痛剤であり常習性を生じる可能性があります。

なんと太宰治は入院中にパビナールのアンプルを病院から入手し、この薬物を自己注射するようになってしまうのです病院を退院し、療養先として選んだ先でも薬物中毒になってしまった太宰は止まりません。薬屋からパビナールを入手、中毒症状が日に日に酷くなっていきます。

こうした中毒症状により太宰治の言動は異常なものとなり、さらに薬物を購入するための借金も増えていきます。

この行動に恐怖した初代は昭和11年9月、太宰治に内緒で長兄文治と井伏鱒二に薬物中毒の相談をします。これを受けて井伏鱒二と長兄文治ら10月13日の朝、嫌がる太宰治を「胸部疾患治療のため」と偽り一般病棟へ入院させ、その二日後に鍵のかかった精神病院へ移動させてしまいます。

太宰は鉄格子のはまった薄暗い部屋に収監されたことに絶望し、翌年この体験を『HUMAN LOST』として発表します。

精神病院への入院から1か月が経過し治療を終えた太宰治は無事に退院。これに懲りたのか以降パビナールを接種することはありませんでした。

この件を受け長兄文治は今度こそ太宰を故郷である青森に連れ戻すことを主張しますが、井伏鱒二の懇願により作家活動を容認することとなります。

なお仕送り額は50円から90円へと増額になり、1回30円ずつ3回に分け井伏鱒二がお金の管理することとなります。

太宰治、惜しくも芥川賞受賞を逃す

昭和10年1月に故芥川龍之介の名を冠した新人賞である通称「芥川賞」が制定されますが、その第一回最終候補に太宰治の『逆行』が入りますこれを知った太宰治は大いに興奮し、芥川賞獲得に固執します。

太宰が芥川賞にこだわる理由の1つにあげられるのは、大学も卒業できず就職も失敗した太宰が芥川賞を取ることで自分自身と島津家の救済につながること。

もう一つはお金。芥川賞の副賞は500円であり、当時薬物中毒で薬の購入に多方面から借金を重ねていた太宰にとって500円はのどから手が出るほど欲しいものでした。

最後に芥川龍之介の名前ですね。太宰治は芥川龍之介のことが大好きでしたので、その名を冠した賞を得ることは何より喜ばしいことに違いなかったはずです。

しかし最終選考の結果、太宰の作品は落選してしまいます。

佐藤春夫が選考会の途中から太宰の『道化の華』を割り込ませて選考会が紛糾し、結果太宰に対する心証が悪くなったのが原因の一つとも言われています。川端康成も「『道化の華』の方が作者の生活や文学観を一杯に盛っているが、作者目下の生活に嫌な雲ありて、才能が素直に発揮できていなくて残念だ」と評した。

「作者目下の生活に嫌な雲」を薬物中毒のことであると察した太宰は、『川端康成へ』という論文を発表小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのかと抗議します。

翌昭和11年にも太宰の『晩年』が芥川賞の候補にあげられていることを佐藤春夫から聞いた太宰は、薬物中毒も手伝い芥川賞の受賞を確信する。さらに万全を期するため太宰治は、かつて罵倒した川端康成に受賞をお願いする手紙を出すことさえしたのである。

しかし、すでに作品を発表していた太宰治は新人には該当せず芥川賞の候補から除外されてしまいます。太宰治の怒りは佐藤春夫に向けられますが、それに佐藤も反論、そうこうしているうちに井伏鱒二と佐藤春夫は、太宰治を薬物中毒の治療のために病院へ強制入院させたのでした。

太宰治、妻が不倫したため自殺をするも失敗(4回目)

無事に薬物中毒を克服した太宰治でしたが、薬物中毒よりも悲惨な出来事が起こってしまいます。

妻の不倫です。

妻の初代は太宰が入院してから毎日のように病院へ見舞に行っていました。しかし入院先は精神科病棟。面会はかないません。

ちょうどこの時、太宰の義理の弟である小舘善四郎が手首を切って自殺を図り、別の病院へ入院していました。

初代は面会先で太宰に会えない代わりに、時間を潰すために小舘をお見舞いに行きます。当初は入院患者と見舞客という関係でしたが、それはやがて男女の関係となってしまいます

このことは初代と小舘だけの秘密にしておくことを約束した二人でしたが、翌昭和12年(1937年)に大学の卒業作品提出のために上京した小舘は、太宰夫妻を訪れその卒業祝いの小宴の席で酔っ払った上二人の関係を漏らしてしまいます。

宴会がお開きになった後、そのことを問い詰められた初代は隠しきれずに自白。精神科病棟で苦しんでいた太宰を尻目に不貞行為を働いたことを知った太宰は激怒します。

3月下旬、激怒する太宰を怯えるようになった初代を連れ、太宰は水上村の谷川温泉へ向かい山麓で薬物服用自殺を図りますが、4回目の未遂におわります。別々に帰省した二人は別居生活となり、同年6月正式に離婚することとなります。

このように薬物中毒・妻の不倫といった暗い影が太宰を苦しめますが、そういった中でも創作活動は行われており、これまでに発表した『漁服記』『思ひ出』『道化の華』『雀こ』『猿ヶ島』などの短編小説をまとめて、1936年に『晩年』を出版しています。

太宰治、再婚して心の平穏を取り戻す

小山初代と別れた太宰は、若いファンや友人などと昼間から酒を飲むようになり、退廃的な生活を送るようになります。

このままではだめになる(もうすでに駄目な人間に十分なっていますが)と考えた井伏鱒二は、太宰治の再婚相手を探します。

小説家の青年で再婚者でもかまないという要望があり、太宰治を紹介したところ「太宰治だけはだめ」と言われるなど紆余曲折あったものの、昭和13年、県立高校の教師をしていた石原美知子と見合い結婚をします

石原美知子

島津(石原)美知子は平成9年(85歳)まで存命であり、遺体は太宰が眠る三鷹市禅林寺に葬られました。

美知子との結婚により心身の回復が見られた太宰は『富嶽百景』『女生徒』『走れメロス』など、人間の善意に光を向けた前向きな作品を描くようになります。これは、結婚前に書かれた『晩年』に収録された作品とは大きく異なり、発表される作品も飛躍的に多くなっていきます。

太平洋戦争が勃発後も創作活動は活発なままで、『正義と微笑』『津軽』など前向きな作品を発表し続けます。

太宰治、愛人太田静子と出会い子供をもうける

美知子との結婚により落ち着いたかに見えた太宰治でしたが、残念ながら太宰の女性好きは何も好転しません。

昭和16年、太宰文学に傾倒していた開業医の四女である太田静子から、告白文を綴ったノートと手紙が太宰の元へ送られてきます。

太田静子

これに対して太宰は「お気が向いたらどうぞ遊びに来てください」と便りを送り返したのでした。

昭和16年9月上旬、太田静子が文学サークルの女子大生を同伴して太宰治を訪れて以来、二人は密会を重ねることとなります。

しかし戦争による太宰の疎開もあり、太田静子との音信は一時期途絶えりこととなります。終戦の年の12月に母を亡くした静子は、地元津軽に疎開中の太宰へ母の死を報告、今後の身の振り方を相談するのでした。そこから再び文通が再会され、太宰からは毎回静子を虜にする手紙が届いたそうです。

昭和21年(1946年)11月、津軽から上京した太宰は静子の日記を用いて小説を書くことを思いつきます。これが太宰治の中で傑作と呼ばれる『斜陽』であり、その執筆中、太宰治は5日間静子の元を滞在します。

なんとその間に静子は妊娠、太宰は生まれてきた子供に「治子」と名付けて認知します。太田治子は現在、作家としても活躍中です。

戦争と太宰治

昭和20年(1945年)に太平洋戦争は終結しますが、太宰治は戦争によってどのような影響を受けたのでしょうか?

戦時中、文学界は当局の意向に沿うよう戦争賛美を謳っていましたが、戦争終結とともに戦争批判へと180℃態度を転換します。こうした様子に嫌気がさした太宰治は「民主主義踊り」といった言葉で批判を繰り返します。

立ち位置としては反俗・反権威。作品も『トカトントン』『ヴィヨンの妻』といった退廃的な作風へと戻っていきますそして昭和22年(1947年)に太宰治の最高傑作と言われる斜陽が発表されると、「斜陽族」という言葉が流行するほどのベストセラーとなります。

しかしながらこのころから結核を患うようになり喀血。1948年、のちに太宰治の遺書と呼ばれるようになる人間失格を発表します。

太宰治、別の愛人と最後の自殺を試みる(成功)

2回目の妻と結婚後、愛人に子供を作らせて認知、という女癖の悪い太宰治ですが、愛人をもう一人作りますそれが太宰治が『斜陽』を執筆していたころに出会った、美容師の山崎富栄です。

山崎富栄

斜陽を書いていた頃と言えば、太田静子と不倫をしていた最中なわけですが。

富栄の亡き兄は太宰治と同じ弘前高校の卒業生であったため、生前の兄のことを何か知っているかもしれないと思い、共通の知り合いである今野貞子を通じて昭和22年3月27日に知り合うこととなります。

富栄の兄のことは知らなかった太宰治でしたが、これをきっかけとして二人は付き合うようになります。この時の太宰の口説き文句は「死ぬ気で恋愛してみないか」であった。

富栄は昭和19年に三井物産の社員と結婚していましたが、昭和19年と言えば太平洋戦争の最中。夫はマニラで召集され、フィリピンの戦闘に参加したまま行方不明でした(戦死が確認されたのは昭和22年になってから)。

太宰治と山崎富栄との記録は、富栄の日記『愛は死と共に』に克明に記録されています。

それによると、5月21日に初めて太宰治と結ばれるのですが、11月12日に太田静子との間に子供ができたころから次第に太宰のことを疑うようになっています。自宅には妻子、伊豆には認知された子供がいるのに富栄には何もないわけで、それが富栄の焦りを産んだようです。

富栄が貯めてきた貯金も太宰治は散財してしまい、親も兄姉も捨てて太宰との生活を選んでいる富栄にとって太宰のつれない態度は許せなかったのでしょう。

富栄は昭和23年6月23日、太田静子宛に一通の手紙を投函します。その内容は「わたしは修治さん(太宰治)が好きなのでご一緒に死にます」といったものでした。

その深夜に太宰治と山崎富栄は玉川上水へ投身。遺体はそれから一週間後の19日早朝、太宰治の誕生日に発見されました。

太宰の遺書は1998年に遺族が一部公開しており、その中には

「美知様 誰よりもお前を愛していました」

「長居するだけみんなを苦しめこちらも苦しい、堪忍して下されたく」

「皆、子供はあまり出来ないようですけど陽気に育てて下さい。あなたを嫌いになったから死ぬのでは無いのです。小説を書くのがいやになったからです。みんな、いやしい欲張りばかり。井伏さんは悪人です。」

など、妻に対する敬愛と謝罪がしたためられていました。

-太宰治, 小説家
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